加持祈祷

 高野山にいるとき、抑揚のついた「クサイ」お経をあげると、「拝み屋みたいなお経をあげるな!」と叱られたものです(お経は雨だれのように一定のリズムで唱えるようにと言われています)。

 真言宗は加持祈祷の宗教といっても良いくらいですから「拝む」ことは本分といってもよいでしょう。では何故「拝み屋」はダメなのでしょうか。そもそも「拝み屋」って何なんでしょうか

 これについては、ある大阿(大阿闍梨のこと)さんがこのように定義してくださいました。

「ある人の為に拝んで、病気が治った時に、仏様が治して下さったと言えるのが真言僧、自分が治してやったというのが拝み屋や。」と。

 

 さきほども申し上げた「加持」という言葉ですが、「加」と「持」に分けることが出来ます。 前者は仏様が私たちを助けようとする働きで、後者は我々がそれを受け止めようとする働きです。お大師様は著書の中で次のように仰ってます。

 

 「加持とは大日如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い 行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」(『即身成仏義』)

 

 太陽と水面に例えておられます。

 いくら仏様が救ってあげたいと思っても、水が濁っていたり、波立っていると、そこに太陽がきれいに映らないように、私たちの心が仏様の慈悲を受け止めるのに必要な状態になっていないと駄目だというのです。

 僧侶は皆様の心の水が明鏡止水、仏様を受け入れることが出来るように色々な修法をもってお手伝いしているだけなのです。

 

 御守やお札を手に入れただけで願いが成就するなんて考えるのはむしのいい話でしょう。普段から信心に生き、仏様の慈悲と感応しやすい状態を作ってこそ結果となって表れるのです。別の言い方をすると、仏様に愛されるような人になることが必要ということかも知れませんね。