数字に踊らされないように

  いつもお寺を手伝ってくださっている方が、高野山での勉強を終えて帰ってこられました。

 無事に、修士課程を終えられ、また学部の科目でも優秀な成績を収められたようです。宗門大学独特の科目である御詠歌も高得点だったそうですので、いずれ檀信徒の方々と一緒に御詠歌をお唱えする機会を作ることができればいいと思っています。

 自分自身もかつて、役僧をするかたわら、科目履修生として教学実修科目、すなわち僧侶に必須のお経とか声明とか布教といったものを学ばせていただきました。

 一流の先生に採点していただくことで、自信を得られるとともに励みにもなりました。特に厳しいと評判の声明の先生から優をつけていただいたのは、苦手意識を持っていただけにありがたかったです。

 

 ところで、昨今では授業といった場面以外のところで、点数をつけたり、つけられたりする機会が増えています。

 アンケートです。

 通販での商品レビューや、グルメサイトやら、採点をつけることはなくても、参考にされている方は多いのではないでしょうか。

 

 自分自身も、塾講師、先達、そして現在、僧侶派遣業者での法務でアンケートに関わりを持っています。

 

 塾講師の頃は、アンケート向けの授業をしないように気を付けていました。

 実際、生徒に「忖度」する授業をすれば、アンケートの点数は簡単に稼げます。

 自分自身も教室数が二百以上ある塾でしたが、全体の二位を取ったこともあります。一位じゃないのがリアルですね。

 しかし、本当に生徒にとって良い先生というのは、成績を伸ばしてくれる先生であり、合格させてくれる先生に他ならないわけです。

 

 また、先達では、ツアー会社が実施するアンケートというものがありました。

 四国八十八か所や西国三十三か所を回るツアーの場合、何回かに分けて結願、満願を目指す場合が多いです。

 最初は、お参りの作法もたどたどしく、お経も上手に唱えられない方々も、最終回近くになると、そこらのインチキ坊主など相手にならないくらいに、上手になられます。

 中には、細かい作法もあって、煩わしく思えるかもしれませんが、それこそが、ともに巡礼をする者同士の心配りであったり、気配りでのあらわれであって、単にお経がうまくなるといったテクニック的なことよりも大切だったりします。

 しかし、満願の回であっても、そういったマナーが全く身についていないお客さんがいることがありました。しかも、他のまっとうなお客さんに暴言を吐くような人たちでした。

 嫌われ役となるのを恐れる先達に当たり続けてきたせいで「野放し」になっていたようです。一見、ツアー会社的には正解のようですが、このような一部の迷惑な方たちのせいで、他の心からお参りをしようとしているお客さんたちが嫌な思いをして、途中で離脱していたとしたら不正解だと思います。

 

 現在進行形のものでは、僧侶派遣会社によるアンケートです。

 会社によって項目はまちまちのようですが、お経は上手だったか、身だしなみはどうだったか、中には、戒名は気に入ったかなんていうのもあるそうです。

 

 自分の知っているお坊さんは、お経が早いというクレームをつけられたそうです。

 しかし、真言宗では、葬儀のお経は速く唱えるのが習わしです。

 こういうこともあり、実際には、お経を端折って、そのぶん、たっぷりと唱えているお坊さんも多いようです。

 

 身だしなみに関しては、知り合いの寺では、阿闍梨でもない僧侶が、堂々と「紫衣」を身につけて葬儀をしています。それなりの年齢の方なので、自分なんかより、ありがたく見えることでしょう。衣の色以前に、何の資格もない人が引導(のようなもの)を渡していることが問題なのですけど・・・・。

 

 戒名も気を遣います。

 知り合いのお坊さんは「普」という文字を入れたところ、葬家は不満だったようです。理由は「普通」の「普」だから。「普く」の「普」なので、立派な文字なんですけどね。

 「閑」を入れてクレームが出た方もいるようです。「閑古鳥」の「閑」なんて、貧乏くさい戒名をつけやがって、ということだったそうです。自分だったら「閑さや 岩にしみいる・・・」をイメージして、故人様の物静かなお人柄を表すよい字だとおもうのですが。

 

 以前に、自分のところでお焚き上げをできない僧侶の方から、大量の白木位牌を預かって、お焚き上げをしたことがあります。みなさん、そのようなクレームを恐れているのか、「安全第一」の量産型の戒名ばかりでした。

 うちの寺の先々代は、自身で漢詩を作るような方でしたので、寺に残っている位牌を見るかぎり、かなり「攻めた」戒名が多いです。

 

 「親が、子の成長を願い、つけるのが命名であるのならば、子が親への感謝で贈るのが戒名である」ともいいます。

 ですから自分は、遺族の思いを代表する以上、故人様に最高の戒名をつけることができるように「攻めたい」と思っています。

 

 統計に対する警句として少し下品な表現ですが、「ビキニの水着と同じで、肝心のところは見えないものだ」というものがあります。

 チャーチルの言葉とされることもありますが、実際は異なるようです。

 一方で、チャーチルが本当に言ったものとしては次のようなものがあります。

 「統計とは、街灯の柱と酒を飲むようなものである。照明としてではなく、支え棒として活用されている。」

 昔も今も、統計の数字は、世論誘導のよい材料になっているというわけです。

 

 たしかにアンケートも有用です。

 戒名の話でも、ちゃんと、なぜ、どのような思いでそのような戒名をつけたかを、丁寧に説明していれば避けられたかもしれません。

 お経や身だしなみも、結局のところ、誰が法衣をつけて、お経をあげたかといことに尽きるのかもしれません。

 誠意をもって丁寧に対応をして、修法をしたのであれば、「コスプレ坊主」に負けないはずです(と信じたいです)。

 

 現在も、例の感染者数の増減で、一喜一憂しています。

 しかし、数値に振り回されずに、自分で考え、本質を見抜くように心がけたいものです。

 

 ※ 令和四年三月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

真言宗の「公約」

 たまに檀家さん以外の方からの葬儀を依頼されることがあります。

 大体の場合、真言宗を指定された結果であるのですが、なかには「宗派は問いません」であったり、「○○宗か真言宗か」しまいには「神道真言宗か」という依頼の結果だったりします。

 そういう方の場合には特に、葬儀の法話などで、少しでも真言宗のことを理解してもらえるように意識しています。

 

 しかし、菩提寺をもつ檀家さんであったとしても、「真言宗とはどんな宗派か」を即座に答えることができる方は少ないのではないでしょうか。

 

 ヒントとなるものとして、高野山真言宗の信徒の心構えを示した三信条というものがあります。政党にとっての公約みたいなものでしょうか。

  二世の信心を決定(けつじょう)すべし

  • 四恩十善の教えを奉じ

  人の人たる道を守るべし

  • 因果必然(ひつねん)の道理を信じ

  自他のいのちを生かすべし

 

 いかがでしょうか。

 密教にたいして、加持祈祷をして奇跡をおこす宗派といった怪しいイメージをもっている方にとっては、至極まっとうな教えであることに拍子抜けしたかもしれません。何より「因果必然」と言ってますから。

 一つ目は、堅固な信仰心をもつこと。二世とは現世と来世です。

 三つめは、宗派のスローガンでもある「生かせ いのち」ですね。

 二つ目の「十善」はつねづね触れてきた「十善戒」のことですので、説明は省きます。

 

 ここでは「四恩」についてだけ簡単に触れておきます。

 

 四恩とは、父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩を指します。国王の恩については、時代に合わせて「国家の恩」と言い換えている場合もあります。「性霊集」などの著作の中で、お大師様が繰り返し強調されているものです。

 

 最近は「親ガチャ」などという言葉もあり、感謝できないような「毒親」を持った方にとっては、一番身近な筈の親の恩ですら、納得できないかもしれません。

 衆生の恩についても、常々「渡る世間は鬼ばかり」と感じている人にとってはしっくりこないかもしれません。

 しかし、これらはあくまでも例示に過ぎないそうです。

 要は「自分を支えてくれたあらゆるものの恩」という意味なのだそうです。

 

 権利を主張することばかりが上手になり、間違いなく、昔よりも物質的に豊かになったにもかかわらず、不平不満が一向になくならないというのが現代の風潮といえるのではないでしょうか。

 

 この世で「借りた」恩に感謝して、恩を返すことを忘れない「報恩の宗教」。

 誰かに尋ねられることがあれば、それこそが真言宗だと説明していただければ間違いないと思います。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和4年2月号の内容を加筆修正したものです。

権(ごん)と実(じつ)

 先日、知り合いの僧侶の方から無事に「教師検定試験」に合格したことを報告してくださいました。

 「教師」とは、平たく言えば住職資格のようなものです。

 四度加行を終えて、伝法灌頂を受けると「阿闍梨」となります。専修学院や真別所のような集団加行の道場で加行を受けた人は、オートマチックに教師資格も得るのですが、個人加行ですと、本当にちゃんとしたレベルに達しているか怪しい人もいるということで、別途、教師試験を受けなくてはなりません。

 実際、「本当にやったの?」という方も見受けられます。あまりにもひどい方は「不合格」であったり、「師僧預かり」(もう少し上手くなったと師僧が認めたときに渡す)だったり、合格通知書に「まだまだ人前でやらないように」といった、自動車免許の「眼鏡限定」の但し書きのようなものが書かれたりするそうです(都市伝説かもしれませんが)。

 

 少し前には、ときどき寺を手伝ってくれている方が、無事に「権教師」になられたことを報告してくださいました。

 

 「教師」と「権教師」。似ていますが、「権」とは「仮の」という意味ですので「権教師」のできることは教師に比べると限られています。

 今回、権教師になられた方に聞いたところ、「加持祈祷」の印可は出たものの、授かった作法は「開眼作法」くらいだったようです。それでも、「資格としては」回忌法要などで十分勤めることができますが、もちろん葬儀などはできません(残念ながら「無許可営業」の方はいらっしゃいます)。

 

 「仮りの」という意味の「権」の対義語は「実」です。

「実」と「権」では、「本物」である「実」の方が「格上」に決まっていると思うかもしれません。

 しかし、例外もあります。

 神様(天部)には、権実二類があるといいます。つまり、仮の神様と、本物の神様がいるというのです。

 仮の神様と本物の神様なら、本物(実類)の方が「偉い」と思うかもしれません。

 そもそも神仏にランク付けするのがナンセンスなのですが、一応ランク付けをすると仮の神様である「権類」の方が上になります。

 なぜならば、本当は仏である(本地仏といいます)存在が、衆生を救うのに適した姿として仮に神の姿をとっているだけだからです。

 

 余談ですが、そのような神様(天部)をお招きして修法するときには、必ず本地仏として扱わなければならないともいわれています。

 

 よく似た用語で「権現」さんなんていうものもあります。

 ほぼ、同じなのですが、「権現」の場合、「仏が神の姿を借りて」という場合よりも広く使われているようです。たとえば、有名人や怨みを残して死んだ人たちを「権現」さんとして祀る場合です。

 

 徳川家康の「東照大権現」もそうです。一応、「本地仏」としての薬師如来が神の姿をとったという「本来の」意味もあるのですが、神仏が戦国乱世を終わられて平和をもたらすために、仮に人の姿をとって現れたのが徳川家康であるから、そこをもって「権現」とする考え方もあるようです。

 実際には、「明神」にするか「権現」にするか、天海さんと崇伝さんの権力争いの結果にすぎないのかもしれませんが。

 

 人が神仏の化身なんて、なんて不遜なと思われるかもしれませんね。

 でも、私たちは仏性をもっています。そういう意味では「権類の人」といえるかもしれません。

 「実類の人」として、欲望のまま人間世界を謳歌するのも良いかもしれません。

 しかし、自分がこの娑婆の世界を「浄土」に変える使命をもって生まれてきた、特別な存在である「権現さん」と思って生きるのもいいのではないでしょうか。

 

一番美しい姿

  高野山には専門の「案内人」さんという方たちがおられます。ガイドさんといった方が分かりやすいかもしれません。

 自分のいた塔頭墓所が、中の橋駐車場から奥之院へと向かう途上にありました。

ですから、そこで掃除をしていると、色々な案内人さんの案内を聞くことが出来ました。本当に、人によって切り口が異なっており興味深かったです。

 

 以前にも書いたと思いますが、加行に入る前、僧侶としての最低のスキルを身につけるようにということで、「権教師講習」というものを受けました。

 その講習の最後に、僧侶として第一歩を踏み出した証ということで「受明灌頂」というものを授かり、そのことを奥之院のお大師様に報告に行きました。

 

 自分たちの姿を見て、ある案内人さんは

 「あれは、ただの修行者。だれでもなれるやつ・・・(云々)」

と言って、参道に広がる観光客をまとめて、道を譲ることもしてくれませんでした。

 

 一方、ある案内人さんは

 「なりたてのお坊さんたちです。一番きれいな姿のお坊さんたちです。」

といって、観光客の方々を端に集めて、皆さんで合掌して見送ってくださいました。

 

 奥之院に到着した時に、引率してくださった教学課長さんから

 「何の力もないお前らなんかの為に、手を合わせて下さった人達に気付いたか。もったいないことや。せめて、これからお大師さんに、あの方たちのことを思って拝むんや。」

と言われました。

「プロ」として、他人の為に必死で拝んだのは、その時が最初だったと思います。

 

 自分も、僧侶として駆け出しとはいえないくらいにはなりました。

 日々の法務も、最初の頃とは異なりそつなくこなせるようにはなったように思います。

 しかし、「一番美しい姿」とはそういうことではありません。

 

 仏様が、一番喜ぶのは、私たちが菩提心を起こす姿だと言われています。

 仏の道を正しく歩みます、という誓いを立てる姿です。

 「えっ?覚りを開く姿の方が喜ぶんじゃないの?」と思われるかもしれません。

 でも、覚りを開くなんて、そんな簡単なものではありませんし、仏様もそれはわかっているのでしょうね。

 誓いを立てては、失敗して、懺悔して、また改めて誓いを立てて・・・

 何度でも「一番美しい姿」に戻って、やり直すことを肯定して、推奨しているのが仏教なのです。

 

 そんな誓いをたてる真言が「発菩提心真言」です。

 

 おん ぼうじしった ぼだはだやみ

 

 毎朝、長いお経を唱える時間が確保できないとしても、これぐらいはおとなえできるのではないでしょうか。

 顔を洗い、歯を磨くのと同じように、心も一度整えて、一日を「美しい姿」ではじめるルーティンを大切にしたいものです。

 

 

法話? 雑話? ただの自分語り?

 ある宗門大学で学んでいる方からこんな話を聞きました。

 

 その方が受けている布教の授業で、学生がそれぞれ法話を発表するという課題があったそうです。

 その中で、一人の学生が、高校時代からオンラインカジノをやっていること、そして、今はパチンコにはまっており、そのテクニックや魅力などを面白おかしく語ったそうです。

 その「法話」と称するものに対して、担当教官は高評価だったそうです。

 

 自分も、以前にその大学で科目履修生として布教の授業を受けていました(先生は違います)。

 そのときに教えていただいたのは、まず、伝えたい「教え」を決めることでした。

 そして、それを補強するために、宗祖の言葉であったり、自分の体験談やエピソードなどで構成していくというものでした。

 丁寧にフォーマットを教えていただいたおかげもあり、自分の時には「暴走する」学生はほとんどいませんでした。ただ、自分と同じような年配の学生には「自分史」の披露に終始する人が多かったように思いますが・・・。

 つまりは、宗派として伝えたい何かがあるかどうかが、法話の必要条件ということでしょう。

 

 その授業の中では、他にも色々と役に立つことを教えていただきましたが、その中で参考にすべきは浄土真宗さんだともいわれました。

 浄土真宗さんが布教においては、一番熱心で、洗練されているように仰っていて、本山では、「辻説法」もやっているから一度、見に行ってきなさいとも言われました。

 そして、浄土真宗さんの法話の強みは「ゴール」が決まっていること。つまり、「阿弥陀さんへの絶対の信仰」という確固たるゴールに向かって話を組み立てることが強みということでした。

 

 一方、真言宗の場合、ゴールとして考えられるものが複数あるので、まずはそれを一つ選びなさいと言われました。

 

 自分が、大学の科目履修生だったのは、高野山塔頭で役僧をしていたときです。    自分が法話の授業を受けている旨を知った上綱(説明が面倒なので「住職」と読み換えてください)様は、「法話は実践だから」といって、その日に寺で行われた回向(回忌法要とか)に、ずっと職衆(脇僧)として入って、ご自身の法話を聞くように言われました。

 そして、すべて別の内容の法話をしてくださいました(わざわざ自分の為に色々なパターンを聞かせて下さった優しさに感謝でした)が、ゴールは共通していました。

 死んだらおしまいではないこと。

 霊は存在しており、遠くにいるわけではないこと。

 そして、残されたものの供養、思いは必ず彼らに届くということでした。

 高野山に先祖供養に訪れた方にとって、これこそが安心(あんじん)に違いありません。

 

 布教の先生の話に戻りますが、

 「私たちが辻説法をしたって、誰も足を止めないよ。でも、葬儀の場では、嫌でも聞いてくれる。しかも、身近なものの死という特別な状況で。だから、その機会を無駄にしないで、よい法話をするように。」

とも言われました。

 現在、通夜のない一日葬というものが増え、時間的にタイトな葬儀が多くなってきました。「開式から出棺まで一時間で済ませてくれ、しかも初七日込みで」という葬儀もあります。それでも、葬儀社からNGが無い限り、五分でも三分でも法話をするようにしています。

 あまりレパートリーは無いのですが、自分の法話のゴールは「即身成仏」とか「生かせ いのち」あたりです。はなはだ拙いですが、内容としては

 死んでもそれで終わりではないこと

 死んだ人を生かし続けることができること

 そのためには、残された人が、故人のことを思いつつ、しっかりと生きること

です。

 残された方には、故人に対して、もっと、色々してあげればよかったと後悔している方も多いです。かくいう自分も、両親の死に際してはそういう思いでしたし、いまでもその思いは消えません。だからこそ、同じような立場から、遺族の方たちに安心していただきたいと心から思ってお話しさせてもらっています。

 

 葬儀は要らない、お墓は要らない、ややもすれば宗教もいらない・・・という不穏な動きがある中、最後の機縁としてつながった方たちもいます。

 

 縁なき衆生は度し難し

 

 自分たち僧侶が、その縁を無駄にするようなことがあってはならないでしょう。

 

  今や、動画サイトなどでも法話がたくさん上がっています。色々な宗派の「売り」を見て回るのも面白いと思います。

 

 

 

 

 

生かされているということ

 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いいたします。

 今日も沢山の方が星まつり護摩供にご参加下さり、ありがとうございます。

 

 今日は、星まつりについてごくごく基本的なことをお話したいと思います。

 

 まず、前をご覧ください(写真はFB参照)。

 三本の幡と、その前に6本の幣串がたっています。

 何か、仏教っぽくないと思われたのではないでしょうか。

 そもそも星まつりって、誰にお願いしているのでしょうか。

 この星まつりの札をご覧ください。この一番上に梵字が書いてあります。

 これは「種子(しゅじ)」といって、その文字で仏様を現わしています。

 この札の種子は「ロ(ウ)」と読み、北斗星を表しています。

 

 その奥には、小さいですが「星(供)曼荼羅」が飾ってあり、こちらを本尊としています。そこには、色々な星が書かれています。西洋占星術でお馴染みの星座も含まれています。曼荼羅中央の仏様は金輪仏頂尊という仏様で、聞き慣れないかもしれませんが、大日如来もしくは釈迦如来と同体とされています。

 

 要は、文字通り星を供養して祈願しているのです。

 話を元に戻して、まえの三本の幡を見てください。

 右は「本命宿」といって、自分の生まれた日によって決まる星です。

 真ん中は「当年星」といって、数え年で毎年変わる九曜星です。よく暦を見て、黒マルだとか白マルとか見て一喜一憂されているかもしれませんが、その横に計都星とか日曜星とか書いてあるものです。

 左は「本命星」といって生まれ年の干支で定まる北斗七星の星の一つです。

 このほかにも大事な星があるのですが、メインのこの星を中心に供養して祈願しているのです。

 ご自身の星を知りたい方は、お声がけください。

 ちなみに、自分の「本命宿」は「畢(ひつ)宿」なのですが、これと生まれた曜日などを組み合わせると、羽田守快先生という著名な行者さんの本による判定は「溺れるカラス」だそうです。カラスだけでもどうかと思いますが、追い打ちまでついています。同じような思いをしてもいい方は、お教えします。

 

 今や、宇宙は手の届かない神秘の世界ではなくなってきました。

 特別な訓練を受けなくても、お金さえ積めば行くことができるようになりました。

 自分は、宇宙に行くのも、女優と付き合うのも興味が無いのですが・・・。

 そんな状況では、星まつりなんていうものは、神秘的でも魅力的でもないものになりつつあるのかもしれません。

 

 たしかに宇宙に対して知識が増えているのは確かでしょう。

 ただ、それが勘違いとなって、宇宙も人間がコントロールできるとまで考えるようになってはいけないような気がします。

 そもそも、この地球でさえ、人間のコントロール下にありません。

 「よく、地球を大切に」とか「地球にやさしく」なんてスローガンが心地よく使われていますが、人間のエゴとおごりが丸出しのものではないでしょうか。

 そもそも地球は人間のものではないですし、むしろ地球が一番喜ぶのは、破壊者たる人間がいなくなることかもしれません。

 

 仏教では、神道地鎮祭にあたるものとして「土公供(どこうく)」というものを修します。

 たしかに人間世界のルールでは、対価を払い、前の所有権者から土地を購入し、不動産登記をすれば、堂々と土地の所有を主張できます。

 しかし、それって、ただの人間の「ローカルルール」にすぎないわけです。

 ですから、土地の神様を供養して、「使わせてもらう」挨拶をする必要があり、それが土公供というものです。

 

 つねづね「生かせ いのち」というスローガンを紹介しています。

 しかし、それと同時に忘れてはいけないことがあると思います。

 それは、私たちが「生かされている」ということです。

 

 何に生かされているのか。

 神と呼んでもいいですし、仏様でも構いません。「お天道様」だっていいと思います。

 何か、偉大な力の下で、何らかの意味や使命を与えられて「生かされている」と考える方が、スムーズに生きることができるかもしれません。

 

 自分の命ですら、自分のものではありません。

 レンタル期間がいつまでか分かりませんが、有効に使わないともったいないです。

 

 自分の人生だから好き勝手に生きる、なんていうのはどうなんでしょう。

 神にも匹敵すると勘違いして、バベルの塔を建てる愚行と変わらないというのは言い過ぎでしょうか。

 

 夜空を見上げて、自分を見守り、導いてくれる星に思いをはせて、自分を生かしてくれている様々なものに感謝できる一年になればよいと思います。

 

※ 令和四年 元日 星祭護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

生かせいのち ~S師を偲びつつ

 松が明けましたので、こんな話をすることを許してください。

 昨年末より、恩人という方を立て続けに見送ることになっています。

 つい先日も、非常にお世話になった兄弟子の通夜に行ってまいりました。

 西山寺での葬儀で、脇僧をお願いしたことも何回かありますので、この中にもお会いされた方がいらっしゃいます。

 

 師は、得度の上では一年先輩でしたが、年齢では20歳以上年上の方でした。

 あまり詳しくは伺わなかったのですが、大手の保険会社で、沢山の部下を従えてバリバリ働く企業戦士だったそうです。

 しかし、そのことを鼻にかけて話されることもなく、子供ほどの年齢の自分なんかに対しても、対等に丁寧な言葉で話してくださいました。

 よく、退職して僧侶になられる方がいらっしゃるのですが、得度とは一度死んで新しい人生を歩むものであるはずなのに、以前の肩書や栄光をひきずって、反り返ったままの方が多い中で、謙虚な方でした。

 

 退職後に僧侶を目指されたこともあり、修行をするうえで体力的な問題がありました。

 まずは、受戒といって、僧侶としての戒律を授かるのですが、この中でいわゆる「五体投地」を300回ほど連続してする場面があります。

 自分一人で休み休みするのなら楽なんでしょうが、受戒は集団で掛け声に合わせてやらなければなりません。

 師は、これに備えてスクワットで鍛えていたそうです。ただ、やりすぎて本番ではむしろ万全ではなかったそうですが、見事にやり遂げられていました。

 

 阿闍梨となるためには加行というものをしなくてはなりません。

 年齢制限があり、専修学院や真別所といった集団加行の道場にははいることができませんので、院内加行という個人加行を受けられました。

 個人加行といっても、決して楽なわけではありません。一日に三座の行法をするだけではなく、塔頭寺院ですので朝の勤行や夕の勤行もありますし、掃除などの下座行もあります。宿泊されたことがある方もいらっしゃるので、「ああ、あれのことか」と思われたかもしれません。しかし、あの朝の勤行は「宿泊者用パート」だけですので4~50分くらいです。実際には、その後、寺内の色々なところで勤行をしてまわるので90分くらいになります。

 また、伽藍参拝と奥之院参拝もしなくてはなりません。伽藍は一時間かからずに帰ってこれるのですが、奥之院は大変です。修行道場である塔頭は奥之院から一番離れたところにありますから3km 以上の距離です。しかも、こんな動きにくい法衣を着て、足元は下駄です。とはいえ、普通に歩いてられません。タイムスケジュール的に余裕がないので、実際は駆け足とはいわないまでも早歩きです。

 師も汗だくになって帰ってきては「なかなか2時間切れないな。」とか「ようやく2時間切れるようになったよ。」と笑顔で報告してくださったのも懐かしいです。

 それでも、体力と時間の戦いはタイトで、あるとき夕食後に、行をしている師の姿を見かけました。そんな時間には行をするスケジュールではないのに。

 聞くと、どうしても夕食(というか夕方の勤行)まえに、行が終わらなかったので、中断して続きをやっているとのことでした(もちろん大阿さんの許可を受けて)。

 中には、唱える真言の数を「千回っていうのは沢山って意味だから、100回でも21回でもいいんだよ。」とうそぶいてごまかしていた行者もいました。

 そんな人たちとは異なり、決してごまかさない、真摯な方でした。

 

 その後は、関東で師僧の寺の役僧として、葬儀や回忌法要などの法務に活躍されていました。

 葬儀の際には、密教の法流を受け継いだ証として「血脈」というものを渡します(観想だけで渡さない方もいます)。

 自分は、葬儀式の中で血脈を授与して、手が届くようならば棺の上、そうでなければ机の上に置いて、あとで出棺の花入れの際に、自分で入れるか、喪主さんに入れてもらうようにしています。

 しかし、師は退堂のさいに、直接喪主さんに、血脈の意味を説明したうえで手渡しされていました。

 司会の方が「それでは、ご導師退場です。みなさま、合掌にてお見送りください。」のアナウンスに合わせて、堂々と退堂するのが格好いいのかも知れませんが、師は、葬儀の意味を解ってもらう方を優先されていました。

 司会の方は焦ってたでしょうけど。

 

 また、師が俗名での葬儀の際にも血脈を渡していることを知り、非難している僧侶の方がいらっしゃいました。

 なるほど、正しいかどうかという点ではその方のいう通りでしょう。

 しかし、おそらく師は「訳あって俗名での葬儀をしているだけかもしれない。それならば、俗名か戒名つきかを区別なく、自分にできる全ての手段を駆使して送りたい」との気持ちだったのでしょう。

 

 また、葬儀では「阿弥陀如来根本陀羅尼」を唱えます。

 漢字の読み方には漢音読みと呉音読みとがあります。多分、一般的には呉音読みが大半です。

 呉音読みでは「あみだにょらいこんぽんだらに」です。これなら、意味も分かり、頭の中で漢字変換もできますね。でも、真言宗ではこれを漢音読みしています。「あびだじょらいこんぽんたらんじ」と。

 師が、西山寺の葬儀で脇僧に入ってくださったとき

「あみだにょらい・・・と唱えて良い?やっぱり、遺族の方にも、阿弥陀さんに救われるというイメージが浮かぶ方が安心して良いと思うんだよね。」と仰いました。

もちろん、そのようにお願いいたしました。

 遺族の心に寄り添うことを大切にされている方でした。

 

 また、ときどき本山が出している「オフィシャル」のCDに合わせて理趣経などを唱えているとも仰ってました。

 「一人でばかり唱えていると、我流の変なお経になってしまうから、こうやって、ときどき修正しないと駄目なんだよ。」と。

 

 人から頼まれて、坂東三十三か所霊場ツアーの先達をお願いしたこともありました。

 朝早くから夜までの拘束時間が長いうえ、お参りする寺には石段が待っています。それに比してびっくりするような安い日給の重労働で、お願いするのが申し訳なかったです。

 しかし、引き受けてくださったうえ、「色々なお客さんとお話もできたし、色々と勉強になったよ。」と仰ってくださったのに救われました。

 常に、現状に満足せずに、工夫と努力をされる方でした。

 

 ときには、なにも言っていないのに

 「自分も、以前は解脱、解脱とばかり考えていたけど、そうじゃないんだよね。」

と、自分のそのときの悩みを見透かして、誘導してくださったこともありました。

 

 人が本当に死ぬのは忘れ去られたとき。

 その人の思いを継ぐ人がいる限り、その人は生き続ける。

 

 わが高野山真言宗のキャッチフレーズは「生かせ いのち」です。

 自分を支えてくれた方、作り上げてくれた方を「生かす」ために、しっかりと「生きる」一年になればと思います。

 

※ 令和4年1月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 書いているうちにも、師との思い出が湧き出てきて、大量に加筆してまとまりのないものになってしまいました・・・・・。