一番美しい姿

  高野山には専門の「案内人」さんという方たちがおられます。ガイドさんといった方が分かりやすいかもしれません。

 自分のいた塔頭墓所が、中の橋駐車場から奥之院へと向かう途上にありました。

ですから、そこで掃除をしていると、色々な案内人さんの案内を聞くことが出来ました。本当に、人によって切り口が異なっており興味深かったです。

 

 以前にも書いたと思いますが、加行に入る前、僧侶としての最低のスキルを身につけるようにということで、「権教師講習」というものを受けました。

 その講習の最後に、僧侶として第一歩を踏み出した証ということで「受明灌頂」というものを授かり、そのことを奥之院のお大師様に報告に行きました。

 

 自分たちの姿を見て、ある案内人さんは

 「あれは、ただの修行者。だれでもなれるやつ・・・(云々)」

と言って、参道に広がる観光客をまとめて、道を譲ることもしてくれませんでした。

 

 一方、ある案内人さんは

 「なりたてのお坊さんたちです。一番きれいな姿のお坊さんたちです。」

といって、観光客の方々を端に集めて、皆さんで合掌して見送ってくださいました。

 

 奥之院に到着した時に、引率してくださった教学課長さんから

 「何の力もないお前らなんかの為に、手を合わせて下さった人達に気付いたか。もったいないことや。せめて、これからお大師さんに、あの方たちのことを思って拝むんや。」

と言われました。

「プロ」として、他人の為に必死で拝んだのは、その時が最初だったと思います。

 

 自分も、僧侶として駆け出しとはいえないくらいにはなりました。

 日々の法務も、最初の頃とは異なりそつなくこなせるようにはなったように思います。

 しかし、「一番美しい姿」とはそういうことではありません。

 

 仏様が、一番喜ぶのは、私たちが菩提心を起こす姿だと言われています。

 仏の道を正しく歩みます、という誓いを立てる姿です。

 「えっ?覚りを開く姿の方が喜ぶんじゃないの?」と思われるかもしれません。

 でも、覚りを開くなんて、そんな簡単なものではありませんし、仏様もそれはわかっているのでしょうね。

 誓いを立てては、失敗して、懺悔して、また改めて誓いを立てて・・・

 何度でも「一番美しい姿」に戻って、やり直すことを肯定して、推奨しているのが仏教なのです。

 

 そんな誓いをたてる真言が「発菩提心真言」です。

 

 おん ぼうじしった ぼだはだやみ

 

 毎朝、長いお経を唱える時間が確保できないとしても、これぐらいはおとなえできるのではないでしょうか。

 顔を洗い、歯を磨くのと同じように、心も一度整えて、一日を「美しい姿」ではじめるルーティンを大切にしたいものです。

 

 

法話? 雑話? ただの自分語り?

 ある宗門大学で学んでいる方からこんな話を聞きました。

 

 その方が受けている布教の授業で、学生がそれぞれ法話を発表するという課題があったそうです。

 その中で、一人の学生が、高校時代からオンラインカジノをやっていること、そして、今はパチンコにはまっており、そのテクニックや魅力などを面白おかしく語ったそうです。

 その「法話」と称するものに対して、担当教官は高評価だったそうです。

 

 自分も、以前にその大学で科目履修生として布教の授業を受けていました(先生は違います)。

 そのときに教えていただいたのは、まず、伝えたい「教え」を決めることでした。

 そして、それを補強するために、宗祖の言葉であったり、自分の体験談やエピソードなどで構成していくというものでした。

 丁寧にフォーマットを教えていただいたおかげもあり、自分の時には「暴走する」学生はほとんどいませんでした。ただ、自分と同じような年配の学生には「自分史」の披露に終始する人が多かったように思いますが・・・。

 つまりは、宗派として伝えたい何かがあるかどうかが、法話の必要条件ということでしょう。

 

 その授業の中では、他にも色々と役に立つことを教えていただきましたが、その中で参考にすべきは浄土真宗さんだともいわれました。

 浄土真宗さんが布教においては、一番熱心で、洗練されているように仰っていて、本山では、「辻説法」もやっているから一度、見に行ってきなさいとも言われました。

 そして、浄土真宗さんの法話の強みは「ゴール」が決まっていること。つまり、「阿弥陀さんへの絶対の信仰」という確固たるゴールに向かって話を組み立てることが強みということでした。

 

 一方、真言宗の場合、ゴールとして考えられるものが複数あるので、まずはそれを一つ選びなさいと言われました。

 

 自分が、大学の科目履修生だったのは、高野山塔頭で役僧をしていたときです。    自分が法話の授業を受けている旨を知った上綱(説明が面倒なので「住職」と読み換えてください)様は、「法話は実践だから」といって、その日に寺で行われた回向(回忌法要とか)に、ずっと職衆(脇僧)として入って、ご自身の法話を聞くように言われました。

 そして、すべて別の内容の法話をしてくださいました(わざわざ自分の為に色々なパターンを聞かせて下さった優しさに感謝でした)が、ゴールは共通していました。

 死んだらおしまいではないこと。

 霊は存在しており、遠くにいるわけではないこと。

 そして、残されたものの供養、思いは必ず彼らに届くということでした。

 高野山に先祖供養に訪れた方にとって、これこそが安心(あんじん)に違いありません。

 

 布教の先生の話に戻りますが、

 「私たちが辻説法をしたって、誰も足を止めないよ。でも、葬儀の場では、嫌でも聞いてくれる。しかも、身近なものの死という特別な状況で。だから、その機会を無駄にしないで、よい法話をするように。」

とも言われました。

 現在、通夜のない一日葬というものが増え、時間的にタイトな葬儀が多くなってきました。「開式から出棺まで一時間で済ませてくれ、しかも初七日込みで」という葬儀もあります。それでも、葬儀社からNGが無い限り、五分でも三分でも法話をするようにしています。

 あまりレパートリーは無いのですが、自分の法話のゴールは「即身成仏」とか「生かせ いのち」あたりです。はなはだ拙いですが、内容としては

 死んでもそれで終わりではないこと

 死んだ人を生かし続けることができること

 そのためには、残された人が、故人のことを思いつつ、しっかりと生きること

です。

 残された方には、故人に対して、もっと、色々してあげればよかったと後悔している方も多いです。かくいう自分も、両親の死に際してはそういう思いでしたし、いまでもその思いは消えません。だからこそ、同じような立場から、遺族の方たちに安心していただきたいと心から思ってお話しさせてもらっています。

 

 葬儀は要らない、お墓は要らない、ややもすれば宗教もいらない・・・という不穏な動きがある中、最後の機縁としてつながった方たちもいます。

 

 縁なき衆生は度し難し

 

 自分たち僧侶が、その縁を無駄にするようなことがあってはならないでしょう。

 

  今や、動画サイトなどでも法話がたくさん上がっています。色々な宗派の「売り」を見て回るのも面白いと思います。

 

 

 

 

 

生かされているということ

 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いいたします。

 今日も沢山の方が星まつり護摩供にご参加下さり、ありがとうございます。

 

 今日は、星まつりについてごくごく基本的なことをお話したいと思います。

 

 まず、前をご覧ください(写真はFB参照)。

 三本の幡と、その前に6本の幣串がたっています。

 何か、仏教っぽくないと思われたのではないでしょうか。

 そもそも星まつりって、誰にお願いしているのでしょうか。

 この星まつりの札をご覧ください。この一番上に梵字が書いてあります。

 これは「種子(しゅじ)」といって、その文字で仏様を現わしています。

 この札の種子は「ロ(ウ)」と読み、北斗星を表しています。

 

 その奥には、小さいですが「星(供)曼荼羅」が飾ってあり、こちらを本尊としています。そこには、色々な星が書かれています。西洋占星術でお馴染みの星座も含まれています。曼荼羅中央の仏様は金輪仏頂尊という仏様で、聞き慣れないかもしれませんが、大日如来もしくは釈迦如来と同体とされています。

 

 要は、文字通り星を供養して祈願しているのです。

 話を元に戻して、まえの三本の幡を見てください。

 右は「本命宿」といって、自分の生まれた日によって決まる星です。

 真ん中は「当年星」といって、数え年で毎年変わる九曜星です。よく暦を見て、黒マルだとか白マルとか見て一喜一憂されているかもしれませんが、その横に計都星とか日曜星とか書いてあるものです。

 左は「本命星」といって生まれ年の干支で定まる北斗七星の星の一つです。

 このほかにも大事な星があるのですが、メインのこの星を中心に供養して祈願しているのです。

 ご自身の星を知りたい方は、お声がけください。

 ちなみに、自分の「本命宿」は「畢(ひつ)宿」なのですが、これと生まれた曜日などを組み合わせると、羽田守快先生という著名な行者さんの本による判定は「溺れるカラス」だそうです。カラスだけでもどうかと思いますが、追い打ちまでついています。同じような思いをしてもいい方は、お教えします。

 

 今や、宇宙は手の届かない神秘の世界ではなくなってきました。

 特別な訓練を受けなくても、お金さえ積めば行くことができるようになりました。

 自分は、宇宙に行くのも、女優と付き合うのも興味が無いのですが・・・。

 そんな状況では、星まつりなんていうものは、神秘的でも魅力的でもないものになりつつあるのかもしれません。

 

 たしかに宇宙に対して知識が増えているのは確かでしょう。

 ただ、それが勘違いとなって、宇宙も人間がコントロールできるとまで考えるようになってはいけないような気がします。

 そもそも、この地球でさえ、人間のコントロール下にありません。

 「よく、地球を大切に」とか「地球にやさしく」なんてスローガンが心地よく使われていますが、人間のエゴとおごりが丸出しのものではないでしょうか。

 そもそも地球は人間のものではないですし、むしろ地球が一番喜ぶのは、破壊者たる人間がいなくなることかもしれません。

 

 仏教では、神道地鎮祭にあたるものとして「土公供(どこうく)」というものを修します。

 たしかに人間世界のルールでは、対価を払い、前の所有権者から土地を購入し、不動産登記をすれば、堂々と土地の所有を主張できます。

 しかし、それって、ただの人間の「ローカルルール」にすぎないわけです。

 ですから、土地の神様を供養して、「使わせてもらう」挨拶をする必要があり、それが土公供というものです。

 

 つねづね「生かせ いのち」というスローガンを紹介しています。

 しかし、それと同時に忘れてはいけないことがあると思います。

 それは、私たちが「生かされている」ということです。

 

 何に生かされているのか。

 神と呼んでもいいですし、仏様でも構いません。「お天道様」だっていいと思います。

 何か、偉大な力の下で、何らかの意味や使命を与えられて「生かされている」と考える方が、スムーズに生きることができるかもしれません。

 

 自分の命ですら、自分のものではありません。

 レンタル期間がいつまでか分かりませんが、有効に使わないともったいないです。

 

 自分の人生だから好き勝手に生きる、なんていうのはどうなんでしょう。

 神にも匹敵すると勘違いして、バベルの塔を建てる愚行と変わらないというのは言い過ぎでしょうか。

 

 夜空を見上げて、自分を見守り、導いてくれる星に思いをはせて、自分を生かしてくれている様々なものに感謝できる一年になればよいと思います。

 

※ 令和四年 元日 星祭護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

生かせいのち ~S師を偲びつつ

 松が明けましたので、こんな話をすることを許してください。

 昨年末より、恩人という方を立て続けに見送ることになっています。

 つい先日も、非常にお世話になった兄弟子の通夜に行ってまいりました。

 西山寺での葬儀で、脇僧をお願いしたことも何回かありますので、この中にもお会いされた方がいらっしゃいます。

 

 師は、得度の上では一年先輩でしたが、年齢では20歳以上年上の方でした。

 あまり詳しくは伺わなかったのですが、大手の保険会社で、沢山の部下を従えてバリバリ働く企業戦士だったそうです。

 しかし、そのことを鼻にかけて話されることもなく、子供ほどの年齢の自分なんかに対しても、対等に丁寧な言葉で話してくださいました。

 よく、退職して僧侶になられる方がいらっしゃるのですが、得度とは一度死んで新しい人生を歩むものであるはずなのに、以前の肩書や栄光をひきずって、反り返ったままの方が多い中で、謙虚な方でした。

 

 退職後に僧侶を目指されたこともあり、修行をするうえで体力的な問題がありました。

 まずは、受戒といって、僧侶としての戒律を授かるのですが、この中でいわゆる「五体投地」を300回ほど連続してする場面があります。

 自分一人で休み休みするのなら楽なんでしょうが、受戒は集団で掛け声に合わせてやらなければなりません。

 師は、これに備えてスクワットで鍛えていたそうです。ただ、やりすぎて本番ではむしろ万全ではなかったそうですが、見事にやり遂げられていました。

 

 阿闍梨となるためには加行というものをしなくてはなりません。

 年齢制限があり、専修学院や真別所といった集団加行の道場にははいることができませんので、院内加行という個人加行を受けられました。

 個人加行といっても、決して楽なわけではありません。一日に三座の行法をするだけではなく、塔頭寺院ですので朝の勤行や夕の勤行もありますし、掃除などの下座行もあります。宿泊されたことがある方もいらっしゃるので、「ああ、あれのことか」と思われたかもしれません。しかし、あの朝の勤行は「宿泊者用パート」だけですので4~50分くらいです。実際には、その後、寺内の色々なところで勤行をしてまわるので90分くらいになります。

 また、伽藍参拝と奥之院参拝もしなくてはなりません。伽藍は一時間かからずに帰ってこれるのですが、奥之院は大変です。修行道場である塔頭は奥之院から一番離れたところにありますから3km 以上の距離です。しかも、こんな動きにくい法衣を着て、足元は下駄です。とはいえ、普通に歩いてられません。タイムスケジュール的に余裕がないので、実際は駆け足とはいわないまでも早歩きです。

 師も汗だくになって帰ってきては「なかなか2時間切れないな。」とか「ようやく2時間切れるようになったよ。」と笑顔で報告してくださったのも懐かしいです。

 それでも、体力と時間の戦いはタイトで、あるとき夕食後に、行をしている師の姿を見かけました。そんな時間には行をするスケジュールではないのに。

 聞くと、どうしても夕食(というか夕方の勤行)まえに、行が終わらなかったので、中断して続きをやっているとのことでした(もちろん大阿さんの許可を受けて)。

 中には、唱える真言の数を「千回っていうのは沢山って意味だから、100回でも21回でもいいんだよ。」とうそぶいてごまかしていた行者もいました。

 そんな人たちとは異なり、決してごまかさない、真摯な方でした。

 

 その後は、関東で師僧の寺の役僧として、葬儀や回忌法要などの法務に活躍されていました。

 葬儀の際には、密教の法流を受け継いだ証として「血脈」というものを渡します(観想だけで渡さない方もいます)。

 自分は、葬儀式の中で血脈を授与して、手が届くようならば棺の上、そうでなければ机の上に置いて、あとで出棺の花入れの際に、自分で入れるか、喪主さんに入れてもらうようにしています。

 しかし、師は退堂のさいに、直接喪主さんに、血脈の意味を説明したうえで手渡しされていました。

 司会の方が「それでは、ご導師退場です。みなさま、合掌にてお見送りください。」のアナウンスに合わせて、堂々と退堂するのが格好いいのかも知れませんが、師は、葬儀の意味を解ってもらう方を優先されていました。

 司会の方は焦ってたでしょうけど。

 

 また、師が俗名での葬儀の際にも血脈を渡していることを知り、非難している僧侶の方がいらっしゃいました。

 なるほど、正しいかどうかという点ではその方のいう通りでしょう。

 しかし、おそらく師は「訳あって俗名での葬儀をしているだけかもしれない。それならば、俗名か戒名つきかを区別なく、自分にできる全ての手段を駆使して送りたい」との気持ちだったのでしょう。

 

 また、葬儀では「阿弥陀如来根本陀羅尼」を唱えます。

 漢字の読み方には漢音読みと呉音読みとがあります。多分、一般的には呉音読みが大半です。

 呉音読みでは「あみだにょらいこんぽんだらに」です。これなら、意味も分かり、頭の中で漢字変換もできますね。でも、真言宗ではこれを漢音読みしています。「あびだじょらいこんぽんたらんじ」と。

 師が、西山寺の葬儀で脇僧に入ってくださったとき

「あみだにょらい・・・と唱えて良い?やっぱり、遺族の方にも、阿弥陀さんに救われるというイメージが浮かぶ方が安心して良いと思うんだよね。」と仰いました。

もちろん、そのようにお願いいたしました。

 遺族の心に寄り添うことを大切にされている方でした。

 

 また、ときどき本山が出している「オフィシャル」のCDに合わせて理趣経などを唱えているとも仰ってました。

 「一人でばかり唱えていると、我流の変なお経になってしまうから、こうやって、ときどき修正しないと駄目なんだよ。」と。

 

 人から頼まれて、坂東三十三か所霊場ツアーの先達をお願いしたこともありました。

 朝早くから夜までの拘束時間が長いうえ、お参りする寺には石段が待っています。それに比してびっくりするような安い日給の重労働で、お願いするのが申し訳なかったです。

 しかし、引き受けてくださったうえ、「色々なお客さんとお話もできたし、色々と勉強になったよ。」と仰ってくださったのに救われました。

 常に、現状に満足せずに、工夫と努力をされる方でした。

 

 ときには、なにも言っていないのに

 「自分も、以前は解脱、解脱とばかり考えていたけど、そうじゃないんだよね。」

と、自分のそのときの悩みを見透かして、誘導してくださったこともありました。

 

 人が本当に死ぬのは忘れ去られたとき。

 その人の思いを継ぐ人がいる限り、その人は生き続ける。

 

 わが高野山真言宗のキャッチフレーズは「生かせ いのち」です。

 自分を支えてくれた方、作り上げてくれた方を「生かす」ために、しっかりと「生きる」一年になればと思います。

 

※ 令和4年1月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 書いているうちにも、師との思い出が湧き出てきて、大量に加筆してまとまりのないものになってしまいました・・・・・。

 

みんな仏の子

 今日も沢山の方がご参加くださりありがとうございます。

 

 今日はどうか分かりませんが、どこに座るか悩む場面は多いのではないでしょうか。

 昔ながらの上座、下座を意識してなかなか自由に座れない。誰がどこに座るかを確認して、そこを「基準点」にして席を決めるということは誰でも経験があるかと思います。

 指定席の方が気が楽で、自由席こそが「不自由席」だったりします。

 

 先日、昔お世話になった寺の葬儀に参列いたしました。

 「自由席」なのですが、意外とみんな的確な「指定席」を見つけていました。

中には、堂々と不正解をさらしている方もおられましたが・・・・。

 

 実は、僧侶の場合、席次の基準が決まっているので簡単だったりします。

 高野山真言宗ではそれを「臈次(らっし)」と呼んでいます。

 通仏教的な用語では「法臈(ほうろう)」といいます。

 

 今では大僧正だとか大僧都といった「僧階」なんていうものがあり、着用できる法衣や袈裟にも細かい規定がありますが、それは後の話。

 初期の仏教教団にそんなものはありません。

 

 唯一、序列の決定方法は、正式の僧侶(「比丘」「比丘尼」)になってからの年数の長幼です。

 僧侶になってからの「年功序列」というわけです。

 

 たとえば、新人が、戒を授かるのには、先輩が何人以上立ち会って・・・などの規定がありますが、その役に就くにあたって、年数以外の縛りはありません。

 このようにすることで、「役の重要性」が低下するのです。

 年数がくれば、誰だってつくことができる役だとすれば、役の有無で偉そうにしたり、軽んじられたりすることはありませんし、役のために足を引っ張りあったり、妬んだりする必要もないわけです。

 

 こういうと、先輩が一日でも早く入っただけで先輩風を吹かせて・・・というめんどくさいイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。

 たしかに、師僧が病に臥せったら、弟子が全力で世話をする規定がありますが、逆に弟子が病に臥せった場合には、師僧が全力で世話をするように求められています。

 

 また、先輩を立てるのは当たり前ですが、逆に後輩を軽んじてはいけないともあります。同じ仏道を目指して発心した者同士、場合によっては後輩の方が先に覚りを開くことだってありうるわけです。ですから、互いに敬わなくてはいけないとするのです。

 

 インドではカースト制度が有名です。一応法律上は撤廃されたことになっているようですが、何千年も続いた文化が皆無になる訳はありません。

 インドで最もポピュラーな宗教はヒンズー教ですが、お釈迦さま当時でいうバラモン教がアップデートしたものといってよいでしょう。

 お釈迦さまの頃は、その宗教者たるバラモンが絶対的な力を持つ時代でしたが、商工業の発展とともに、そのことに疑問を呈する人も出てきたようです。そんな中で、誕生したのが仏教です。同時代には、いまなおインドで一定の信者を誇るジャイナ教も誕生しています。

 ご存じの通り、お釈迦さまは王子様ではありますが、バラモン階級ではありません。その次のクシャトリア階級です。そして、お釈迦さまは様々な身分の方を等しく弟子とされていますし、布教もされています。

 ときには、貴族の招待を断って、先約があると言って娼婦の宴に参加したりもしていますし。

 

 そういう意味では、仏教は徹底した平等主義を目指す宗教といえるでょう。

 独立後、インド最初の法務大臣になられたアンベードカルという方はカーストの外にある不可触民出身の方でしたが、身分制度の撤廃を目指してヒンズー教から仏教に改宗したのも、そのような考えがあったからでしょう。

 

 利益を追求する企業や、勝利を目指すスポーツなどで、年功序列を貫くことはそぐわないでしょうが、そのような価値観が不要な世界では、年功序列はむしろ軽んじてはいけないのではないでしょうか。たとえば、家庭や地域のコミュニティなんかです。

 

 そして、お寺もそういう場所でなければならないはずです。

 役や肩書があり、一般的に「社会的成功者」と呼ばれる方も、それはそれで気苦労も多いでしょう。

 お寺に来て、仏様の前に来たときくらいは、重荷をおろして、防具を外して、弱音を吐いたり愚痴を聞いてもらっていただいてはいかがでしょうか。

 

 また、冷たい世間にうんざりしている方なんかは、仏様の前に座って、たとえ世界中が敵であっても、最大の味方がここにいらっしゃると自信と安心を得て帰っていただければと思います。

 

 自分も、そのような環境を作るべく努力したいと思います。

 

※ 令和三年11月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

手放す訓練

 ちょうど境内の紅葉が綺麗なときに来ていただきました。となりのお家のイチョウも綺麗だったと思います。

 どちらも秋の彩りですが、仕組みが少し違うそうです。

 

 モミジやカエデが赤くなるのは、気温の低下に伴い、葉っぱの中にアントシアニンという赤い色素が出来るからだそうです。あのブルーベリーの色素としても有名なやつですね。

 一方、イチョウの黄色は、カロテノイドという色素によるものなのですが、こちらは元々備わっているそうです。

 ただ、普段は葉緑素であるクロロフィルの緑色に隠れて見えないだけだそうです。それが、秋になり日照時間が短くなり光合成が盛んでなくなると、クロロフィルが退化して、結果、黄色が表面に出てくるわけです。

 

 イチョウの木は寺によく植えられています。

 理由の一つとしては、火災対策とも言われています。

 イチョウは多くの水分を含み、燃えにくいそうです。実際、色々なお寺で「火伏せのイチョウ」などと呼ばれ、火事でも燃え残ったイチョウの大木が残っていたりします。昔の人の智慧が見つけた「自然の防火壁」でもあったようです。

 

 それだけではなく、イチョウはお寺にふさわしい木であるように思います。

 いつも申し上げているように、私たちの中には「仏性」があります。

 ただ、煩悩にまみれて埋もれてしまっていて見えなくなっているだけです。

 仏教には三つの定義があるといいます。一つはブッダのおしえ、二つ目は仏となるための教え、三つめは自分が仏であることに気づく教えです。

 密教では最後の定義を大切にしています。

 闇夜であっても、月は存在しています。雲を取り除けば、まんまるい月が顔を出すように、自分の中の仏様を現わして、大きくしていくのが密教の修行です。

 

 今、護摩でいろいろな祈願を添え護摩木に書いていただいたものを仏様にお届けしました。

 それは、欲であり煩悩のあらわれであり、今までの話に反するものではないかと心配されている方もいらっしゃるかもしれません。

 

 ご安心ください。

 密教では、欲を否定していません。欲が人間の行動の原動力になることはたしかです。ただ、その欲のレベルを、高度のものにしなさいというのです。

 だって仏様にも欲はあります。それは「衆生を救いたい」という欲です。

 

 「小欲」と「大欲」などということもありますが、仏様の欲は「偉大な欲」である「大欲」です。

 なかなか、凡夫たる私たちには難しいです。でも、あきらめてはそこでおしまいです。だから意識して訓練する必要があります。

 

 実は、この護摩の修法の中にもあります。

 みなさんの添え護摩木を投じるタイミングは、百八支という文字通り108本の枝を投じた後です。108という数でピンとくるでしょうが、これは煩悩を表しています。

 火を見つめ、一心に真言や経を唱えることで、煩悩を焼き尽くします。

 そして、今後は「大欲」を満たすために生きる決意をすることで、祈願を聞き届けてもらうのです。

 

 握った手のままで、福徳をつかむことはできません。

 一度、手に握っていた煩悩をすべて仏様に引き取ってもらって、代わりに仏様からプレゼントをいただくのが護摩です。

 今日、沢山のお土産をもらったと感じていただければ幸いですが、なんかモヤモヤしたものを下ろすことができたと感じていただければ、それだけでも幸いです。

 

※ 令和三年12月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

最高の印(いん)

 真言宗の特徴といえば、名前が示す通り真言を唱えることです。実は、密教を含む天台宗はもちろんですが、禅宗でも真言や陀羅尼を唱えていますので、真言を「重要視している」といった方が正しいかもしれません。

 

 さらには、手でいろいろな印を結ぶことも真言宗の特徴といえるでしょう。

 私たちと仏様とは「構成要素(六大)」は同じなのですが、仏様は行動、言葉、気持ち(身口意)が清浄なものなのに、衆生は同じものをそなえているのに、それらをうまく使いこなせないために罪過の原因たる「三業(さんごう)」となってしまうわけです。

 

 そこで、印を結び、真言を唱え、心を整えることで仏様と同じ境地に至る訓練をするわけです(三密行)。

 

 あの一休さん高野山を訪ねたときの話(多分フィクション)です。ある阿闍梨さんに向かい

 「真言宗では印というものを大事にしているようだが、子どもの手遊びと同じじゃないか。功徳などないでしょう。」と小馬鹿にして、立ち去ろうとしました。

 すると、阿闍梨が、手をポンと打ちました。

 一休さんは思わず振り返ります。

 次に阿闍梨は手招きをします。

 何事か?と一休さんは戻ってきました。それに対して

「あなたは、私が手をうっただけで振り返り、手招きすれば戻ってきましたよね。私の手の動きひとつでもこのようなはたらきがあるのです。まして仏様の伝えてくださった印にどうして功徳がないでしょうか」と。

 さすがの一休さんも失礼をわびたそうです。

      

 なかには、在家の方でも、どこで調べたのか、色々と印を結んでいる方もいらっしゃいます。ちなみに真言宗では、印は自分で調べて勝手に結ぶようなものではなく、「授かる」ものです。

 

 もともとはインドの舞踊のときの指の動きが起源ともいいますから、一般の方が興味本位で結ぶ分には目くじらを立てる必要はないのかもしれません。

 しかし、僧侶が、しかるべき手続きを踏んで教わらずに結んだり、資格のない方に伝えたりすると「越法(おっぽう)」という重罪になります。

      

 ただ、そんなことをいうと、やはり密教は坊さん向けの「秘密の」宗教で、排他的で嫌だ、と思われるかもしれません。

 

 しかし、みなさんは一番大切な印をすでに知っています。

 合掌です。

 合掌にも色々な種類がありますが、普段みなさんがされている「普通」の虚心(こしん)合掌も立派な印です。

 ただ、手を合わせるだけではもったいないです。

 最初に述べたように「三密行」にレベルアップしてしまいましょう。合掌すると同時に気持ちと言葉も整えるわけです。

 

右ほとけ 左衆生

合わす手の 内ぞゆかしき

南無の一声

 

 仏教では右手が仏、左手が私たち衆生を意味します。合掌は、仏と私たちが一体となる様子を表しています。

 仏様が私たちに寄り添っていること、私たちの中にも仏がいらっしゃることを心に浮かべて、ただ「ありがとうございます。」と唱えるだけで立派な三密行です。

 その姿は、すでに仏の姿そのものです。そんな時間を大切にしたいものです。

 

※ 令和三年11月号の「西山寺通信」の内容に加筆修正したものです。