葬儀雑感

 葬儀は数多くさせてもらっているのですが、今回は、普段と少し異なる葬儀に参列しました。

 最初の師僧の奥様の葬儀でした。

 いつもは、導師として修法する側として葬儀に関わっているのですが、今回は違います。僧侶の世界では師僧は親と同じということですし、実際奥様にも大変お世話になったので、気持ち的には親族に近い感じです。

 さらには、参列者として悲しんでいるだけではなく、葬儀式での脇僧としてのつとめも果たさないといけないという点で、不思議な精神状態での葬儀でした。

 

 そこのお寺には、沢山の弟子がいらっしゃいます。自分の知らない「弟」や「妹」も増えているようです。今回も、全部の方を呼ぶわけにはいかないということで、参列を断った方も多かったそうです。

 

 久しぶりに会う「兄弟」を見て、色々と思うところがありました。

 

 式がはじまる前に、誰かに見られることを意識するわけでもなく、ひっそりと「追弔和讃」などの御詠歌をあげておられた、奥之院から駆け付けたA師。さすがに、普段お大師様の御膝元でお仕えしているだけあって、心が震える御詠歌でした。

 

 葬儀終了後、出棺までの花入れの時間に、隅の方で印を結び、微音で経や真言をひたすら唱えつづけていた、栃木から駆け付けたS師。口下手でシャイな方ですが、小手先でごまかすようなことを嫌う真面目な方。師らしいなと思って見ていました。

 

 入院中でおいでになれなかったS2師は、同じ時間に部屋で一生懸命供養法を修すると仰っていたそうです。自分は、その方の加行をする姿を見ていました。どんなに時間がかかっても、手を抜くことなく全力で取り組む方でした。きっと、ご自身の体調など後回しで、心のこもった供養をされていたことでしょう。

 

 やはり、体調が悪く、法務を退いたと伺っていたS3師も奥様に付き添われておいでになってました。自分が得度したばかりのころ、周りにはとっつきにくい先輩しかいなくて不安だったなか、優しくお声がけ下さり、色々と気にかけてくださった方です。「癒しの」笑顔は健在でした。お経や小難しい作法なんかよりも、師の場合、そのお顔を見せて下ることこそが最高のはなむけだったのかも知れません。

 

 以前に、その師僧から、葬儀を200件くらいやると、何か分かるようになると言われました。

 いつの間にか、その数を大きく超えてしまいました。

 たしかに、次第も頭に入り、手際よく修法出来るようになりました。

 しかし、故人を「如何に供養するか」よりも、参列者に「いかに見せるか」という部分のスキルの方が伸びてしまっていたのかも知れません。

 

 今回、式中で、結婚式の二次会レベルの出し物のようなものを披露する方(失礼)がいる一方、見えない部分での真摯な供養の心というものを教えてくださった「兄弟たち」に感謝です。

 

 というわけで、手持ちの引導作法の次第やら解説本をすべて引っ張り出して勉強しなおしています。

 これまでも、デビュー当時からの葬儀次第を少しずつマイナーチェンジしてきたのですが、ここらへんでフルモデルチェンジかな、とも考えています。

 「心」の伴った、自分が現状でできる最高の葬儀を目指します。

 

 

 

 

仏罰はあたる?あたらない?

 大学時代、日本法制史ゼミに所属していました。

 内容は、江戸時代の刑罰制度で、当時の刑法に当たる「公事方御定書」と、裁判記録に当たる「御仕置例類集」がテーマでした。テレビでお馴染みの「鬼平」こと長谷川平蔵宣以の裁判記録なども目にしました。

 当時、世界最高の治安を誇っていたといわれる江戸の町。当時の刑罰制度を知ることで、現代における犯罪減少のヒントが得られるのではないかと思ったのです。

 残念ながら、答えは出ませんでしたが、現代の感覚からすると、かなり厳罰主義であるような印象を受けました。

 

 現在では刑罰は、単純な「目には目を」的な応報刑というわけではなく、一定の効果を期待した目的刑であるとされます(応報刑的な面を否定するわけではありません)。

 そして、目的には、一般予防と特別予防があります。

 

 一般予防とは、犯罪とは直接に関係しない「一般」市民を対象にして、犯罪を抑止させるという予防効果です。

 一つは威嚇効果です。

 犯罪を犯したら、こんなつらい目に遭うんだよということをあらかじめ示しておくことで威嚇して、犯罪を踏みとどまらせる効果です。

 ただ、いくら法で定めていても、適切に運用されていなければ意味がありません。

 権力者なら、罰を受けないとか、そもそも検挙率が低いというのもダメです。

 「なんだよ、犯罪を犯したって、逃げ得じゃねぇか」と世間が思ってしまっては、犯罪抑止効果が低下してしまうからです。

 そういう意味で、刑罰が適切に科されることによって、司法への信頼を高める効果も大切です。

 

 一方で、特別予防とは「特別」な対象、すなわち犯罪者に対する効果です。

 まずは教育により更生をはかり、再犯を防ぐという効果です。

 もう一つは、更生が期待されない期間は、社会への危険を取り除く必要があるという隔離効果です。

 死刑についていうと、教育効果は当てはまらずに、隔離効果のみが当てはまることになります。

 

 これらの刑罰は、人が自分たちの社会を守るために作ったものです。

 それに対して、仏罰はどうでしょうか。

 

 仏罰にも一般予防効果はありそうですね。

 悪いことをすると罰が当たるとか、地獄に落ちるとかいうのを恐れて、まっとうに生きるというのであれば、威嚇効果が表れています。

 また、悪い奴には仏罰が当たり、善人は必ず報われるというのを目にすると、「天網恢恢疎にして漏らさず」ということで神仏はちゃんと見て下さるんだという信頼が生まれ、一層真面目に生きる励みになるでしょう。

 

 ただ、残念ながら、仏罰は刑罰と異なり、すぐに適用されないこともあり、「神も仏もあったもんじゃない」と愚痴る人がいるのも事実です。

 そういう意味では、昔話や時代劇みたいに、分かりやすいタイミングで勧善懲悪が果たされる方が、社会は安全かつ平和なものになるのかもしれません。

 

 しかし、仏罰を恐れているから、善行に励むというのでは、仏教の目指す本当の善ではありません。

 善行は善行として、悪行は悪行として業として蓄積していくのですが、すぐに分かりやすい形でご褒美も罰も与えてくれません。それは、私たちが自発的に善をなす存在になることを期待されているからかも知れません。

 

 たしか、勝海舟とその塾生たちとの話だったと思います。

 塾生たちが、わいわい騒いでいます。

 「神なんて居るわけないよな。」

 「ああ、さっきも神社の境内で、立ちしょんしてきたけど、この通り何の罰も当たってないぜ。」

 みんな、大笑いしているところに、先生が入ってきて一言

 「もう、罰は当たってるじゃないか。」

 生徒がきょとんとしていると

 「神社に立ちしょんするなんて失礼なこと、およそ人ならできねぇことだ。そういう意味じゃ、お前らはもう、犬畜生になるっていう罰があたってるじゃねぇか。」

と言い放ったそうです。

 

 神仏を過度に恐れる必要はないと思います。

 さらには、無理に神仏の存在を肯定して、信仰しろというわけでもありません。

 しかし、何か大いなる力によって見守られている、いわゆる「お天道様が見ている」という気持ちを忘れて、謙虚さを忘れてしまっては、人間は人間ではなくなって、単なる生物学的な「ヒト」に堕してしまうように思います。

 

 謙虚に生きること、すなわち何かに生かしてもらっている、と意識することで、神仏の警告メッセージも聞き取りやすくなるのではないでしょうか。

 

 

 

結縁灌頂

 いままで、何回か「灌頂」について書いたことがありますが、いま一度、簡単に書いておきます。

 

 灌頂とは、文字通り「頭頂」に水を「灌(そそ)」ぎかける儀式です。

 もともとは、インドで国王の即位式などで四大海の水を頭に注ぎかける儀式があったものを、仏教に取り入れられたものと言います。

 灌頂には、色々な種類があるのですが、一番メジャーなのは、結縁(けちえん)灌頂、受明灌頂、伝法灌頂の3つです。

 受明灌頂は、弟子灌頂とも言い、得度したのち、これからさらなる密教修行をすることを発意した際に受けるものです。

 伝法灌頂は、今までもたびたび説明していますが、加行を終えたものが阿闍梨となるためのものです。

 

 タイトルにある結縁灌頂だけは、後者2つと異なり、在家の方でも受けることができる灌頂なのが特徴です。

 あまり書いてしまうと、ネタバレになり面白くないので、ごく簡単に書きますと、目隠しをして、手に持った華(高野山では樒を用います)を曼荼羅に投げます(というか、落とす感じ)。その華が落ちたところの仏様と縁を結ぶというものです(「投華得仏」といいます)。

 曼荼羅金剛界と胎蔵があるように、高野山では例年、5月に胎蔵曼荼羅の仏様と縁を結ぶ結縁灌頂が、10月に金剛界曼荼羅の仏様と縁を結ぶ結縁灌頂が行われます。

 

 かつて自分自身を肯定できない時期がありました。

 追い打ちをかけたのは、たまたま新聞で、かつての同級生の死を知ったこと。

 何故、自分なんかが生きているのか、彼が生きていくことの方がよっぽと世の為になるに違いないのに・・・と、訳の分からない自己嫌悪に陥りました。

 他のいのちを犠牲にして生きるだけの価値が自分にあるのか、宮沢賢治の「よだかの星」のよだかのように苦悩して、それでも生きるために他のいのちを口にしなくてはならないことに罪悪感を感じさえしました。

 情けないことに、生物である以上、生存欲求があるため、絶食するには至りませんでした。それでも、最小限のものしか口にしなかったため、三か月で20㎏ほど体重が落ちました(職場の同僚は病気によるものかと思っていたようで、気を遣ったのか、体重のことは一切口にしませんでした)。

 わざと難しい道を選んで、四国遍路をまわっていたのもその時期です。このまま、四国で・・・という気持ちもありました。

 

 そんなときに高野山へ参り、結縁灌頂に入壇しました。

 号泣しました。

 こんな自分でも生きていていいのだと、仏様に言っていただけたように感じたからです。ようやく、自分の存在を肯定できた瞬間でした。

 

 さきほどは、「仏様と縁を結ぶ」儀式と書きましたが、実際は「仏様との縁を確認する」儀式といった方が正しいかもしれません。

 誰もが、仏様の大事な子供であり、一部であるというのが真言宗の考えです。

 ただ、そんなことを意識することなく、日々の生活に追い立てられているだけという方が殆どではないでしょうか。

 自分が特別な存在である、誰もが「天上天下唯我独尊」であるということを意識することができれば、自信と責任をもって生きていくことができるのではないでしょうか。

 

 高野山塔頭で役僧をしているときに、40歳くらいの尼僧さんが加行をするためにいらっしゃいました。心身ともに少し不安がある方でした。ちょうど結縁灌頂が行われている時期でしたので、

「時間があるのでしたら、結縁灌頂を受けてきてはいかがですか。」

と申し上げたところ、ものすごい形相で

「前に受けました! そんなに言うなら、あなたが受けてきたらどうですか!」

と言われてしまいました。

 

 たしかに結縁灌頂金剛界と胎蔵を一回ずつ受ければコンプリートなのかも知れません。

 しかし、先ほども書いた通り、仏様との縁を確認する機会ということでしたら、何回受けてもいいわけです。実際、自分も胎蔵の方は複数回受けています。

 

 ちなみに、その方は、加行全体の4分の1すら修了することなく山を下りていきました。

 「色々な力が、私の行を邪魔している」などと、被害妄想的なことを口走り、ついには部屋から出てこなくなってしまいました。

 仏様と向き合うのが行なのに・・・。

 仏様とつながっていることを確信できていないゆえの結末だったと思います。

 

 残念ながら、高野山での結縁灌頂はコロナの影響で中止となっています。

 関東の方でしたら、高輪の東京別院で開かれるものが便利ですが、こちらも同様です。

 状況が変わり、結縁灌頂が開かれるようになりましたら、是非とも体験していただきたいです。特に、かつての自分のような悩みを抱いている方にはおすすめします。

 

 

 

信仰上の浮気 ダメ ゼッタイ

 この寺の住職になるにあたり、本山にて「法流稟承(ほうりゅうほんじょう)」「親授式」というものを受けました。

 その際に、座主様からこのような内容のお言葉をいただきました。

 「皆さん、色々なことを学んできたと思います。しかし、これからは高野山真言宗の寺の住職として、本宗のやり方に則って修法するように気を付けてください。」

 

 そんなこと、当たり前って思われたかもしれません。

 高野山真言宗のお寺だと思ってお参りしたら、「南無阿弥陀仏」だったり、団扇太鼓を打ち鳴らす音とともに「南無妙法蓮華経」と聞こえてきたら、びっくりしますよね。

 

 しかし、実際、僧侶個人レベルでは、他宗派で修業なり、勉強をしている方は少なくありません。

 自分の、高野山での師僧も、真言宗のことをよりよく理解するためには、他宗派のことを知り、外から見る必要があるという考えだったようで、若い頃には、臨済宗南禅寺で修業をされていたそうです。弟子の中には、師僧をリスペクトして、同様のことをされている方もいらっしゃるようです。

 

 自分も修行というほどではないですが、ゆはり鎌倉仏教の源流となった「綜合大学」である天台宗のことを学ぶことが大切だと思い、しばらくの間、天台宗のお寺さんに通って勉強させてもらっていました。

 

 先日、井戸封じの祈祷を依頼されました。自分の学んだ修法では、天台方のものと真言方の両方がありますが、先の座主猊下からのお言葉を思い出し、真言宗の看板を背負っている以上、真言宗のやり方で致しました。

 

 秋の時期になると、本山では、中院流の伝法灌頂が開かれます。

 阿闍梨になるための儀式です。

 真言宗には、高野山真言宗とか智山派とか豊山派といった「派」とは別に「流」というものがあります。本当は単純に「高野山真言宗=中院流」というわけではないのですが、高野山で集団で行われる伝法灌頂は中院流でおこなわれます。

 

 普通は、四度加行を終えると、直近で開かれる伝法灌頂を受けて阿闍梨となります。

 真別処や専修学院などの教育機関でも、春から加行をスタートして、秋には伝法灌頂を受けるようなカリキュラムになっています。

 

 山内の塔頭で役僧をしていたときのことです。

 そこでは、院内加行といって、大阿闍梨さまから個人的に指導していただく加行を行っていました。

 色々な加行者さんがいらっしゃいました。

 その中のお一人の話です。

 

 四十歳前後の方だったと思います。非常に熱心な方で、行に入る前に、寺でお手伝いを長くしてくれていたこともあり、お経の唱え方や立ち居振る舞いなどの作法も素晴らしいように思いました。

 自分が、そのような感想を先輩の僧侶に伝えたところ、その方の見立ては自分とは異なり、

 「あいつは、まだ真言宗の坊さんになっていない。」

と仰いました。自分は、何を以てそのように見ておられるのか分かりませんでした。

 

 その後、その方は、直近の伝法灌頂に入る許可を伝授阿闍梨様から得られなかったのです。それどころか、「権教師講習会」という、初心者向けの講習会に参加するように指示されたそうです。詳しくはまた別の機会に申し上げますが、「権教師」というのは、文字通り「教師未満」の資格で、わざわざ加行が終わり、これから阿闍梨、教師になろうという人がなる必要はないものです。

 

 なぜ、伝授阿闍梨さんがストップをかけたのか、理由は伺っていません。しかし、先輩の仰っていたことも踏まえて考えると「真言宗のお坊さん」になりきれていなかったということでしょうか。

 

 その方は、若い頃から真言僧を目指したわけではなく、日蓮系のお寺や、天台系のお寺に勤めていたこともあるそうです。実際に、信者さんの為に祈願をしたり、現場を数多く踏んでいたようで、お経が上手で、立ち居振る舞いが堂々としているのも当たり前だったのかもしれません。しかし、心に真言宗の僧侶としての「なにか」が存在していなかったということなのでしょう。

 

 他の宗派を学んだことで、自分の進むべき宗派をよりよく理解できるという利点があると思います。

 しかし、色々な宗派の、「おいしい」ところを表面的につなぎ合わせるというのは、意味がないように思います。金にものを言わせて、四番バッターばかりをそろえている野球チームが、それほど機能しないようなものです。

 

 また、別の行者さんの話です。

 その方は、研究者の方で、高野山大学の大学院で、瞑想と脳波の関係を研究されて修士号も取っている方でした。語学も堪能ですし、頭が良いだけでなく社交性もある素晴らしい方でした。

 しかし、やはり先輩の見立ては違いました。

 「あの人は、真言宗を信仰していない。あくまでも研究の対象としてしか見ていない。」とのことでした。

 はたして、その方も伝法灌頂を受けるまでに、色々なことが重なり数年を要してしまいました。

 

 在家の方に、菩提寺以外の宗派に関わるな、とか、関係ない宗派の寺にお参りするな、などと言うつもりはありません。

 

 四国遍路の先達をしているときに

 「うちの菩提寺さんには内緒でお参りに来てるんです。前に作った掛軸も、お寺さんが来るときには隠すんですよ。ものすごく怒られたんで。」

と、仰る方もおられました。

 たしかに、そのご住職の意見もごもっともだと思います。

 ただ、実際には四国遍路の札所には、真言宗以外のお寺さんもあるんですね。浄土真宗日蓮宗はないのですが、浄土宗や禅宗のお寺さんはあります。

 ですから、真言宗の信仰者でなくても、仏教の求道者として、大先輩である弘法大師の息吹を感じながら巡礼することに意味があるのだと思います。

 

 信仰は、人間関係と同じようなものかもしれません。

 色々な宗派のことを幅広く知るということは、色々な分野の友達と付き合うのと同じで、自分の視野を広げてくれることでしょう。

 

 そのうちに、本当に心の許せる親友ができるでしょう。

 

 僧侶や、それに近い篤信者となると、その宗派と結婚するレベルです。

 重婚などはもってのほかですし、いつまでも元カレや元カノを引きづっていてはいけないということなのでしょうね。

 先述の行者さんたちは、元カノを引きづっていたり、信仰(愛)のない仮面夫婦であることにダメだしされたんでしょうね。

 

 まずは、親の決めた「許嫁」である家の宗教を知ってほしいです。

 そのうえで、色々な「友達」とのお付き合いをしてほしいです。

 そして、本当に「運命の人」を見つけたと思ったなら、「許嫁」にこだわる必要はないでしょう。但し、そうなったらもう浮気はダメですよ。

 

 

不邪見

 今回で十善戒の話も最終回です。

 

 不邪見についてです。文字通り、邪(よこしま)な考えを持たないということです。

 邪な考えとは、簡単には、仏教の真理に反する考えのことです。

 よく言われるのは、「断見」と「常見」にとらわれないことだとされます。

 

 まず、「断見」というのは、人は死んだら何も残らないという考え方です。

 よく、物知り顔で、「仏教は無我を説いているのだから、死んでも何も残らないはず」という方がいらっしゃいます。

 しかし、お釈迦さまは、因果の道理を説いておられます。

 因果応報を否定するということは、責任のある生き方をするモチベーションが無くなる危険性があります。実際、他の宗教の方にとって「死んだらそれまで」という考えは、奇異なものに映るようです。

 たしかに、悪事を重ねている人がのうのうと生きている、逆に善人が報われていない場面も多いです。だからといって、因果応報を否定するのは早計です。

 私たちが積み重ねる「業」というものは、確かに記録されています。ただ、それがトリガーとなって、目に見える結果となるには、時間差があるわけです。

 ですから、痛い目に遭わないことをよいことに、悪さを続けている人は、荷台に時限爆弾やら火薬をどんどん積み続けているようなものでしょう。

 

 一方、「常見」とは、人は死んでも「我」(アートマン)という不滅のものがあり、輪廻するというものです。一歩進んで、また人として新たな人生を歩むことになると説明しているものもあります。

 しかし、これはあまりにも都合がよすぎる話でしょう。

 

 「盲亀浮木のたとえ」というものがあります。

 海深くに住む目の見えなくなった年老いた亀が、百年に一度だけ海面に顔を出すそうです。そのタイミングで、プカプカ浮いている流木に空いた穴に顔がスポっとはまることで、人に生まれる、さらには仏法に触れる機会というのは、それくらい滅多にない有難いことだというのです。

 ですから、私たちは、ゲームでリセットボタンを押して、一からやり直せるようなわけにはいかないので、せっかくのこのチャンスを逃さないように努力しないといけないというわけです。

 

 もっとやわらかい話をしましょう。

 何が正しくて、何が間違った考えかというのは難しいです。仏教的には正解でも、世間一般では不正解に見えるものもあるという話です。

 

 ある家族が舟に乗っていたときに、大波に煽られて、母親と奥さんが海に落ちたそうです。どちらを先に助けますか?女性の方は、親と旦那さんと読み替えてください。

 

 答は出ましたか?

 

 儒教的な、多分に道徳的な立場に立てば、親の恩が何よりも優先でしょうから、母親を助けるのが正義でしょう。

 

 近代的な合理主義的な立場だと少し複雑かもしれません。まずは体力的に厳しい親を助けてから配偶者を助ける。いや、体力のある配偶者を助けて、一緒に親を助ける方が合理的かも。そもそも、二人とも助ける余裕があるのか、どちらか一人しか助けられないとすれば・・・・などと、色々な条件を考慮に入れて正解を探さないといけません。

 

 では、仏教の立場ではどうでしょうか。

 近いほうから助ける。それだけです。

 

 帰宅されてから、ご家族に質問するのはやめてくださいね。家庭不和の原因になりかねませんから。

 

 さらに申し上げると、人の価値観はバラバラで、人それぞれの正解を持っているといえるでしょう。

 

 以前に西国観音霊場の先達をしていたときのことです。

 西国霊場は、一度満願をすると、申請することで先達になることができます。あとは何周かするごとに先達のランクが上がっていきます。

 それもあって、案内するお客さんの中には、先達資格をもつ方がちらほら見受けられます。

 

 そんな中の一人の男性からこんなことを言われました。

 「自分でお金を出さずに、観音様にお願いして、願い事は叶うんですかね。」

 はじめ、何を言っているのか分かりませんでした。少し、話をして、言いたいことがようやくわかりました。

 そのお客さんたちは自分でツアー代金なりを負担してお参りしている。それに対して、先達である自分は、代金も払わずにタダでお参りさせてもらっている。そんな人間が、観音様にお参りしたって願い事は叶うわけがないというわけです。

 自分は、こう申し上げました。

 「自分が先達をしているときには、自分自身の願い事はしていませんよ。みなさんの願い事を聞き届けてくださいますようにと観音様にひたすらお願いして、応援しているだけですよ。」

 しかし、その方は、この偽善者が、といった感じで納得していないようでした。

 価値観の違いは如何ともしがたいと思った瞬間でした。

 

 今日の護摩にしても、自分は自分自身のお願いはしていません。

 一枚一枚、添え護摩木を読み上げて、お薬師様に皆様の願いを届けることに全力を注いでいます。間違っても、ハロウィンジャンボが当たりますようになんてお願いしたりしていません。それはそれで、別のときに、一人で、しかも今日のような息災護摩ではなく、お金儲けに特化した増益護摩をしますから大丈夫です。

 

 もしかすると、不邪見というのは、自分自身の価値観だけにとらわれていてはいけないという意味も含まれているのかもしれません。

 何が正しいのか、近視眼的になるのではなく、多様な立場や価値観を尊重して探さないといけないということかもしれません。

 

※ 令和3年10月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

みんな やればできる子

 前回、IQに関するお話をしました。退屈かもしれませんが、今回も似たような話です。

 

 自分が、自分の知能指数をはじめて知ったのは小学校三年生のときです。

 とある学習塾の入塾試験の際に測定されました。試験の後、塾長なのか、校長を退職して「天下り」といった感じの老先生との面接でいきなりこう言われました。

 

 「こういう子が、受験で一番失敗するんですよ。」

 なかなかの先制パンチでした。

 続けて理由を仰いました。

 「これまで、大して努力しなくてもいい成績だったでしょう?でも、これからはそうはいかないよ。努力しなくても勝ち抜けるほどの知能指数ではないから。そして、今まで苦労せずに点数が取れてきただけに、努力をする癖がついていないでしょ。だから、受験で失敗しやすいんだよ。」

 小学三年生にはなかなかハードでした。親はそれ以上だったかもしれませんが。

 

 当時は、今のように塾が乱立しておらず、また少人数制なんていうものもほとんどありませんでした。自分の入った校も1学年に30名10クラス以上あったと思います。そんなメンバーの中には、半端た努力をしたところで自分には到底、歯が立たないであろうIQ160前後の「本当の天才」も何人かいました。

 

 

 そこで、自分のパラメーターに気付いてもっと努力すればよかったのでしょうが、中学受験の結果は大先生の予言通りになってしまいました。

 さすがの自分も、その後は目的達成から逆算した最低限の「必要十分な」努力をするようになったように思います。

 つくづく「努力も才能」なんていう方もおられますが、その通りだと思いますし、自分にはその才能が足りないようです。

 

 くだらない自分語りが長くなり申し訳ありません。ここからが本題です。

 

 私たちにとって、この世での「合格」というのは「覚り」ではないでしょうか。

「覚り」などという単語を使うと、高尚過ぎて必要以上に手の届かないものに感じてしまうかも知れません。また、宗派や説明する方によって定義も異なってくるでしょう。 

 そこで、ここではとりあえず真言宗的に「即身成仏」と定義しておきましょう。

 

 「即身成仏」とは、死んで仏になるのではなく、生きたまま仏になるということです。

 それは決して不可能ではないというのです。何故ならば、私たちも仏様も「構成物質」は同じだからです。

 仏様と同じような素晴らしい行動をとり、仏様と同じような優しい言葉を用い、仏様と同じように慈悲にあふれた気持ちでいられたならば、もうそのままで仏様になっているというわけです。

 

 ただ、口で言うほど簡単なことではないです。

 

 唐の詩人として著名な白楽天さんが、徳の高い禅僧(鳥窠禅師)に、仏教の要は何かと尋ねたところ

 「悪いことをしないで、善いことをすることだね(諸悪莫作 衆善奉行)」

と言われ、少しがっかりして

 「そんなことなら、3歳の子供でも分かることじゃないか。」

し返したところ

 「その通り。3歳の子供でもわかるのに、80歳のじじいになってもなかなかできないことだよ。」

と言われて感心したという話のようなものです。

 

 体、口、気持ちの「身口意」を仏様と同じように扱うことができると「三密」(最近では、異なるネガティブな意味に使われていますが)になりますが、十善戒のタブーに触れるように、使い方を誤ると「三業(さんごう)」となります。

 

 仏様は当然のことですが、「純度100%」の仏様なので、努力も意識もしなくたって仏様の振る舞いが出来ます。

 一方で、私たちは、「鬼と仏が混在する」存在ですから、意識して努力しないと仏様の振る舞いができません。鬼の振る舞いが前に出ることもあります。ただ、「仏様の成分」がある以上、努力さえすれば仏様として振舞うことができるのです。

 

 ちなみに、私たちと仏様の間には「天部」という、いわゆる天人の世界があります。

 天人の世界は、美しく、苦労も少なく、過ごしやすい素敵な場所だそうですが、そこがゴールというわけではなく、寿命が来るとまた別の世界に行かなくてはならないそうです。そして、人によっては、人間世界よりも苦労が少ない世界であるために、覚って仏様の世界に行くのは、人間よりも難しいと言います。努力する癖が身につきにくいということかもしれません。

 

 私たちの人間世界は、面倒くさい世界です。嫌なことも、嫌な人もたくさんいます。そんな環境で、仏様のように振舞うには並大抵の努力では難しいです。

 

 よく「やればできる子」なんて言います。

 人間界の住人である私たちはみんな「やればできる子」のはずです。

 たしかに、生来的に仏の成分が多い人もいれば、鬼の成分の多い人もいます。さらにはおかれた環境もバラバラです。「金持ち喧嘩せず」なのに対して、過酷な環境では心穏やかに過ごすことすら難しいでしょう。そういう意味では、難易度はまちまちです。でも、決して「無理ゲー」ではないのです。

 

 「やればできる子」にも色々のパターンがあります。

 「やってできている子」「やっているけど(まだ)できていない子」「やらないからできない子」「やろうとすらしていない子」・・・・。

 

 仏様は、私たちが仏になることも嬉しいですが、それ以上に「菩提心をおこす」ことを喜ばれると言います。「仏様目指してがんばります」と決意することです。

 正直、仏様も、私たちなんかが「成仏」を簡単に達成できないことを分かっておられるのでしょう。

 だから、決意して、失敗して、反省して、また決意して・・・という私たちの努力そのものを評価してくださるのでしょう。そういう意味では、点数のみで合否を決められる受験よりも努力の甲斐があります。

 

 発菩提心真言

   オン ボウジシッタ ボダハダヤミ (私は 菩提心を 発こします)

 三昧耶戒真言

   オン サンマヤ サトバン (私は 仏様と 同じ境地にあります)

 

 是非、勤行の際にお唱えして、目の前にいらっしゃる仏様と、自分の中にいる仏様を喜ばせてあげてください。

 

教祖様おことわり

 昔、学習塾で働いていた頃の事です。

 今はどうか分かりませんが、当時は出席簿に生徒の情報として知能指数(IQ)が記されていました(自分自身も、その塾のOBでしたので、小学3年生のときには自分の知能指数を知る羽目になりました)。

 たしかに、上位のクラスの方がIQの高い生徒が多かったです。地域によってもばらつきがあり、京大の御膝元に存在している校の上位クラスともなると学者さんのご子弟が多いせいか、150台がゴロゴロしていて、自分なんかがこのクラスを教えてもいいんだろうかと思ったりもしました。

 ただ、IQが成績に直結しないということも確信できました。

 

 実際、IQが唯一無二の成功条件でないことは自明の理で、他にも重要なパラメーターがあることが指摘されてきました。

 たとえば、EQです。「心の知能指数」などと言われることもあります。空気が読めない、相手の気持ちを慮ることができないというのでは、いくらIQが高くても、それを十分に生かすことができないかもしれません。

 

 他にもAQ(達成指数)とかDQ(良識指数)とか、さらには子供のころに豊かな社会体験をすることで後天的に育まれるPQなんていうのもあるようです。

 

 話を戻しますが、自分が塾で教えているときに、IQ以外に最も大切であると思っていたのは「素直であること」でした。希学園の前田卓郎先生も同じことを仰っていたように思います。

 実績のある大手塾の強みはノウハウです。これだけのことをやれば合格できるというデータがあるわけです。それなら全員合格できる理屈になるじゃないか、というかもしれませんが、実際にはそのノルマをこなすことができない人が大多数なのです。能力的に難しい場合もあるのですが、そのノウハウに全幅の信頼を置くことができないために無駄なことをしてしまっているケースもあります。

 中長期的な結果を見ずに目先の結果に右往左往して、やるべきこともやらずして家庭教師(しかもプロではない)をつけたり・・・。

 親が不安を顔に出したり、口に出したり、ましてや「あの先生(塾)で大丈夫かしら」なんて言ってしまったら、生徒は自信をもって勉強できるはずもなく「詰み」は見えています。

 

 今回は何の話なんだ?と思われたかも知れません。いよいよ本筋に入ります。

 

 宗教も同じではないでしょうか。

 仏教には2500年の歴史があります。すごい実績です。そして、とんでもない天才たちが少しずつアップデートしてくださったほぼ完成品の宗教です。

 日本の仏教に限って見てもそうです。

 弘法大師最澄さんの平安仏教、そして鎌倉新仏教のお祖師様たちはどの方もとんでもない方たちです。自分たちが覚りを得るのもすごいですが、凡夫であるパンピーをいかに覚りに導くかというメソッドを苦心して確立してくれたのが各宗派の教義です。

 

 真言宗について申し上げると、ひとつ間違えると迷路に入り込みそうな難解な宗派なのですが、そのために、弘法大師は攻略本ともいうべき沢山の著作を残してくださっています。もっともそれすら難解ですので、色々な先達の方々の力を借りて理解する必要があるのですが。

 我々が行う行法についても、数々の大徳によって次第として確立しており、それを忠実に修すればよいだけです。

 

 よく密教は、在家の人が一緒に唱えたりできないお経や声明をあげて、不親切だと不満を言う方もおられますが、理趣経のような難しいお経をあげなくても、在家用の勤行次第にある般若心経でも十分なことは、先にもあげたお大師様の攻略本のひとつ『般若心経秘鍵』でも分かります。

 少し、本格的な「行」のようなことをしたいのであれば、「阿字観」「阿息観」「月輪観」などの瞑想を行うこともできます。決して閉鎖的な宗派ではありません。

 

 以前に社会人向けに真言宗の講師をしていたことは書いたと思います。

 そのときには、けっこうな割合で「教祖様」がいました。

 その「教祖様」というのは、真言宗の教えや作法をちゃんとトレースするのではなく、都合の良いところだけをつまんで、場合によっては他の宗派や民間信仰のような類とくっつけてオリジナルのものを作ってしまうのです。

 

 自分は、新興宗教を否定するわけではありません。真言宗だって鎌倉新仏教だって、いやそもそも仏教だって、当時は新興宗教だったわけですから。

 また先ほども、仏教はその都度アップデートして「ほぼ完成」していると申し上げました。時世に応じて、まだまだ変化、改良すべき余地も残されていると思います。でも、それができる人というのは、ごくごく特別な人だと思います。

 それなのに、わざわざ、先師さんたちが拓いてくださった道を歩かずに、獣道を分け入りショートカットできるという「教祖様」の自信はどこからくるのでしょう。

 

 繰り返しますが、それぞれのお祖師様たちは、「これこれのことをすれば覚ることができます」というノウハウを提示してくださっています。

 ただし、それこそが難しいです。 合格のためのノウハウと同じです。

 しかし、そこでバタバタして、あっちの宗教の方が楽そうだとか、家庭教師をつけるかのように、宗派を複数組み合わせた方が効果的では?なんていうのは逆効果でしょう。

 結果的に、自分に合わない、ということで、宗派を変えることになるのは仕方ないかもしれません。それでもまず、家の宗派であったり、縁のあった宗派に全幅の信頼をおいて信仰してからではいかがでしょうか。