リモート法要と運心(うんじん)

 先日、初めてオンライン法要というものを致しました。

 こちらからの話ではなく、自宅に伺って三回忌をする予定だった施主さんから、要望があり、それに応える形でした。

 自分の中では、これでもちゃんとした供養といえるのか、モヤモヤした気持ちであったのが正直なところです。

 真言宗の檀信徒の方ならお分かりだと思いますが、真言僧はお経を読む前に色々な作法をしていますよね。

 

 たとえば、護身法。

 密教の行法はお客様をお迎えして接待する作法になぞらえられます。

 そういう意味では、護身法は、ホストがお客様をお迎えするのにふさわしい姿になることです。身体、口(語)、意(心)の不浄を取り除き、慈悲の鎧で身を包むわけです。

 通常は、行者自身に対して行うのですが、病気の人の加持をする場合などは、その方に対しても行うことがあります。

 

 それに続いて洒水。散杖という木の棒で、水を振りまく作法ですね。

 こちらも、先ほどのようにたとえると、お客様をお迎えする部屋を清浄なものにしているわけです。

 

 このようなことをパソコンの画面越しで行っても、目的を果たせるのでしょうか。

 

 そんな中で、自分を納得させることができる方便として思い浮かんだのが「運心」という概念でした。

 

 「運心」とは、「観念を以て行うこと」をいいます。

 

 ひとつには、方角上の「運心」というものもあり、こちらは「随方」の対義語となっています。

 本来、お寺は南向きに建てられ、南に向いた仏様を北を向いた行者が拝むようになっているのですが(ご本尊などの条件で例外はあります)、古くからある大寺でもない限り、そう都合よく建っていません。拙寺も、ほぼ南向きではあるものの、正確には南西を向いてます。

 そういうときには、行者が「自分はいま○○の方角を向いている」と観念して修法するというのが、方角上の「運心」です。

 

 もうひとつは「行為における運心」です。

 たとえば、自分たちの修法をする次第書の中には、「これこれの印を結んで頭の上に置く」などと書かれていても、実際には胸の前で動かさずに、観念の上で頭上に置くだけ、とされていることがあるのがそれです。

 

 お遍路や巡礼に行かれた方なら、先達さんから「今日は風が強くて危ないので、灯明は実際にはつけずに、『運心』でお願いします。」と言われたことがあるかもしれませんね。夕方の遅い時間の参拝の時も、そのあとで火の始末をすることになるお寺の方の苦労を考えて「運心」で線香や灯明をそなえる巡礼者さんは粋です。

 

 「運心」を、文字通り「心をはこぶ、めぐらす」ことだと捉えると、その範囲には自ずと限界があるのかと思います。

 

 先ほどあげた護身法や洒水のあとには、結界を張る作法があります(回忌法要なんかでは省きますが)。

 要は、お迎えしたお客様(=仏様)との楽しい時間を邪魔されないようにするわけです。

 その結界の範囲は、初心なら壇の周囲程度。習熟するにつれて結界の範囲を広げていきます。すごい行者さんなら日本全体とか地球全体まで結界を張ることができるのかもしれませんが、自分はお堂全体か、せいぜい境内一杯しか観想できません。

 同じように運心の及ぶ範囲も、人それぞれなのかと思います。

 

 今回、自分がオンライン法要を承った施主さんの場合、自分が戒名をつけて葬儀もした方です。その後の七七日、初盆、一周忌とご自宅に伺って行いました。仏壇のある部屋も施主さんたちのお顔も声もハッキリとイメージできるケースだということもあり、受けたともいえます。

 

 一方で、先日ある僧侶の方から、その方の知り合いの家族の方の病気平癒の祈祷をしていただけないかとのご相談をうけました。

 それに対して、自分はこのようにお答えいたしました。

 「護摩の際に、祈願することはやぶさかではありません。しかし、祈願主の方が普段お付き合いもなく、どこにあるかもご存じでもない田舎寺の住職に祈祷してもらうよりも、普段からおつきあいのある貴僧が、一生懸命拝んであげる方が、その方にとってありがたく、験もでるのではないですか。」

 冷たい内容だったかもしれませんが、僧侶の方なら理解していただけるものと思いました。

 先日、その方からは、無事に祈願主が退院されたとの報告があり、安堵いたしました。

 

 朝夕の勤行では、祈願文として

 「至心発願 天長地久. 即身成仏 密厳国土. 風雨順時 五穀豊饒. 万邦協和 諸人快楽.

  乃至法界 平等利益」

とお唱えしており、言葉の上では、自分の手に余るとんでもなく大きな願いをしています。

 

 まずは、隣人に心をめぐらすことを怠らずに、少しずつ心のおよぶ範囲を大きくしていきたいと思います。

 

お布施① 【お布施の受取人は誰】

  以前に、師僧から、

 「お布施をもらうときに、『ありがとう』って言っちゃいけないよ。『お預かりします』と言うんだよ。」

と言われました。

 なるほどその通りです。

 お布施を受け取るのは、あくまでもお寺であり、お寺にいらっしゃる仏様であるわけです。

 自分たち僧侶は、仏様のおつかいとして葬儀や回忌法要などの法務をして、受け取ったお布施を「預かって」仏様の前に届けるわけです。

 ときには、僧侶派遣会社への紹介料や葬儀社へのマージンをそこから支払わなければならないこともあるので、仏様宛以外のものも「預かっ」たりしていることもあるわけですが。

 

 ここでいうお布施というのはお金だけではありません。

 あるお坊さんについて、こんなクレームが出たそうです。

 回忌法要をして、帰る際に、施主さんから御供のための籠に入った果物を差し出されたそうです。

 それに対して

「すみません、今日は電車で来てますし、寺にも寄らずに帰るので要らないです。」

と仰ったそうです。

 それがクレームになったというわけです。

 ご本人は、正直な気持ちで遠慮されただけで全く悪気はないわけです。

 それに対して、その方の師僧さんは、邪魔になるんだったら、その場で受け取って、見えないところで捨てたっていいんだから、と注意されたそうです。

 それも微妙な気がしますけど。

 

 こんなことはレアケースだと思っていました。

 しかし、以前に自分が導師として葬儀をしたときのことです。

 葬儀を終えて、車に荷物を積み込んで帰ろうとしていたとき、ホールの担当者が走って、自分と伴僧の方の分のお花を届けに来てくださいました。葬儀で大量に飾りつけしたお花のうち、棺に入れることが出来ずに余ったお花をこういう形で下さることがあります。ちゃんと花の組み合わせも考えて、長さも切りそろえて束にしたものです。

 自分ともう一人の伴僧の方は、感謝の言葉を述べて受け取りました。

 ところが、もう一人の方は

 「車で遠いところから来ているのでいいです。」

と断っていました。

 担当の方が、自分たちが帰ってしまわないように、急いで準備をして、駆けつけて渡そうとした花束を前にして、あり得ないと感じました。

 しかも、理由が意味不明ですし。

 ちなみにもう一人の方は、東京からバスと電車を乗り継いできてくださった方でしたが、その場では受け取って、お寺に置いて行ってくださいました。これが模範解答ですよね。

 

 そもそも、お布施を受け取るのは自分ではなく、仏様であることを忘れているからダメなんでしょう。

 さらには、相手の方が「布施波羅蜜行」という仏様になるための立派な行をする機会も奪っているわけです。

 以前に、布教について学ぶ際に、先生が「お寺でなにかしようとしたとき、タダでやるのはよくない。」と仰っていたのもそういうことだったのかも知れません。

 

 葬儀にしても回忌法要にしても、お布施は高いという観念が一般化しているようです。現実には、僧侶も二極化しており、紹介業者だのみの僧侶なんかはワーキングプアだったりするのですが。

 

 お布施は、本来、自主的に、気持ちよく渡すべきものなのですが、そうなっていないことも多いでしょう。

 渡す方にとって、目の前の僧侶しか見えずに、その背後にいらっしゃる仏様が見えないことも理由なのかもしれません。

 ましてや、目の前の坊さんがいかにも生臭坊主で、そんな奴の乗る高級外車に化けると思ったら、どんな金額でも「高すぎるお布施」に感じることでしょうね。

 

 仏様のおつかいとして、仏様を近くに感じてもらえるようなふるまいを心がけたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏壇は小さなお寺

 最近は仏壇もコンパクトでお洒落なものが増えてまいりました。

 昔の家のように仏間が当然のようにあった時代とも違いますし、マンションに冷蔵庫ばりに大きな仏壇というのもアンバランスだったりしますので、当然の流れといえるでしょう。

 

 先日、四十九日で伺ったお家(檀家さんではありません)でも、家具調のモダンな仏壇がご用意されていました。

 仏壇の開眼もお願いしますということでしたので、始めようとしたのですが、中にはお位牌はあるのですが、ご本尊様がいらっしゃらないのです。

 てっきり、お飾りするのを失念されているのかと思い、「ご本尊様はどちらですか。」とお尋ねしたところ

 「うちは、無宗教なので。」

 少し、固まってしまいましたが、とりあえず仏壇としての開眼は行いました。

 

 仏壇の荘厳というものは、宗派によって決まっています。

 しかし、モダンな仏壇が増えており、それが当てはまらないケースも増えています。

 昔の仏壇でしたら、中が「三階建て」になっているものが多いのではないでしょうか。

 そして、一番上の部分は、中央左右の三か所に分割されているのではないでしょうか。

 その中央にご本尊を安置します。真言宗でしたら、大日如来です。

 その左右には、高野山真言宗でしたら弘法大師不動明王です。派によっては覚鑁さんになったりします。

 位牌はその下の壇というのが一般的です。

 

 ただ、実際にはそうなっていないご家庭も多いようです。

 うちの檀家さんの仏壇でも、ご本尊さんが大日如来ではなく、釈迦如来阿弥陀如来の方がいらっしゃったり、先祖の位牌がセンターをはっていて、ご本尊様が隠れてしまっていたりです。

 それを否定するつもりは毛頭ありません。

 日々、心を込めて手を合わせていただくことが大事なのであり。それにふさわしい「応接室」としての体をなしていれば十分だと思います。

 

 先日、お寺に来られた方が

「たくさんの仏様に守られていいですね。」

と仰いました。

 たしかに、その通りです。そして、そのお寺のミニチュア版というか、出張所であるのが仏壇です。

 そのように考えると、ご本尊のいらっしゃらないお寺がありえないのと同様に、ご本尊のいらっしゃらない仏壇というものもおかしいわけです。

 それは、ただ位牌を納めるための厨子、入れ物というだけです。

 今では、納骨堂や位牌堂をそなえる寺も多いですが、そういう場所でも、お骨や位牌だけがあるわけではなく、大抵、仏様が安置されています。

 

 たしかに、葬儀で引導作法を行うことで、亡くなった方は「仏様」になっています。しかし、「ルーキー仏」なんです。ですから、初七日の不動明王にはじまる十三仏に代表される色々な仏菩薩を巡って修行していく必要があるのです。

 ですから、仏壇に手を合わせるときには、故人様だけではなく、故人様を導いてくださるように仏様にもお願いするのが礼儀なのではないでしょうか。

 

 仏壇のご本尊様は、真言宗でしたら大日如来なのですが、真言宗のお寺でも大日如来が本尊のお寺ばかりではありません。かくいううちの寺も薬師如来です。

 これは密教の素敵なところでして、あらゆる仏が大日如来の化身と考えられるから、どんな仏様でもOKというわけです。

 

 以前に、別の方からは、こんなご相談を受けました。

 自分が葬儀をした方で、四十九日までに仏壇とご本尊様を用意したいが、お寺でお願いできないか、ということでした。

 自分は、毎日お顔を拝むご本尊様ですから、ご自身でお気に入りの仏様を見つけてくださいと、お伝えしました。

 四十九日の当日、仏壇には、素敵なお顔の大日様が座っておられました。

 

 宗教によっては、偶像崇拝を禁じているところもあります。教義こそ重要ということですね。たしかにその通りかもしれませんが、文字だけではなかなか理解しにくいののも確かです。

 

 私たちはなかなか簡単に仏様にはなれません。

 まずは仏様の真似をすることからはじめるしかないでしょう。

 真似をしたいと思う理想の仏様を前にして、日々手を合わせ、対話をすることがその役に立つことでしょう。

 

 自分用の小さなお寺を持ってみませんか。

 

 

 

 

天上天下唯我独尊

 今日は花祭りということで、お釈迦さまの話をしたいと思います。

 

 既に、玄関にいらっしゃった、生まれたばかりのお釈迦さまに甘茶をかけて下さったかもしれません。

   ご存じの通り、今から二千五百年ほどむかしの今日、四月八日にお釈迦さまがお生まれになりました。

 すぐに立ち上がって、東に七歩、南に七歩、西に七歩、北に七歩歩かれたのち、天と地とを指さして「天上天下唯我独尊」と仰ったというのが、あのお姿です。

 その際には、お祝いというわけで龍王が現れて、天から「甘露の雨」を降らしたとされます。

 ですから、その逸話をなぞって、お釈迦さまの像に甘茶をかけるわけです。

 

 檀家さんの中にも、「この寺に誕生仏なんかあったんだぁ」とおっしゃる方もおられます。真言宗では「花祭り」はないものだと思っていた方もいらっしゃったようです。

 

 たしかに、真言宗ではお釈迦さまの存在感が薄いです。このお堂には密教を伝えたビッグネームである「真言八祖」像がかかっていますが、その中にもお釈迦さまは入っていません。

 そもそも、密教は仏教ではない、むしろヒンズー教に近い、と指摘する学者さんもおられます。たしかになるほどと思う部分もあります。

 しかし、密教が仏教であるか否か、判断するには「仏教」の定義によるのではないかと思います。

 

 以前にも、お話したかも知れませんが、大切なことですので申し上げます。

 仏教には三つの定義があるとされます。

 一つ目は、今日が誕生日である「お釈迦様」ことガウダマ・シッダールタという仏の教えという意味です。

 

 二つ目は、仏になるための教えという意味です。

 お釈迦さまの亡くなられた後、修行者たちは「どうせお釈迦さまの様には覚ることはできない。それなら、仏の下位互換たる『阿羅漢』を目指そう」となったわけです。

 でも、そうではない。自分たちだって、手段と努力次第では仏になれるんだ、と考える方たちが現れるわけです。日本の仏教は、大乗仏教が主流ですが、まさしくそういう考え方です。だからこそ、それぞれの宗派のお祖師さんたちは、禅であったり念仏であったりと、より多くの方が仏になれるような方法を必死で考えたわけです。

 

 三つめは、仏であることに気づく教えという意味です。

 普通の修行をしていても、何度も転生を繰り返して、多くの時間が必要とされます。あのお釈迦さまでも、あの誕生の瞬間の前には、人間だけではなく、ときには猿や鹿などの生を過ごしてきました。

 密教では、そうではなく、「即身成仏」を目指すわけです。そのとっかかりとして、まずは、自分の中に「仏」がいることに気づく必要があるわけです。

 みなさんも、直感的に、あるいは経験として、自分の中の仏を肯定できるのではないでしょうか。

 たとえば、あとで、自分でもびっくりするような素晴らしい行動を無意識でとったなんてことはないでしょうか。

 

 いやいや、三つ目の定義は、お釈迦さまの仏教とは違うでしょう、という方がいるかも知れません。いえ、言っておられますよね。しかも、生まれてすぐに。

 

 「天上天下唯我独尊」

 

 これは、暴走族が特攻服に刺繍したりしていきがるための言葉ではないです。

 そして、お釈迦さまだけに当てはまる言葉でもないです。

 人は誰しもが、この身の中に「仏性」という、仏の種というか、小さな仏をもって生まれてくる尊い存在であるわけです。

 それを、仏にふさわしい行動、言葉、気持ちを保つことで、少しずつ大きく育てていくことが成仏へのプロセスです。

 

 本当は、自分も仏なら、他人も仏と思い、相互礼拝、相互供養できればベストなのでしょうが、なかなか難しいかもしれません。

  

 まずは、自分の中にちゃんと仏様がいらっしゃること、そして、この娑婆の世界に、仏となるチャンスを与えられて送り出されてきたことを、今一度確認する日としたいものです。

 

※ 令和三年四月八日薬師護摩ならびに花まつりでの法話に加筆修正したものです。

 

 

大師はいまだおわしますなる

 もちろん、今日の主役は弘法大師です。 

 

 では、弘法大師が生まれたのはいつですか

 詳しい方なら、宝亀5(774)年6月15日とスラスラと出てくるかもしれません。

 お生まれになったのは香川県の屛風ヶ浦、いまの善通寺のあたりです。高野山などでは「青葉まつり」といってこの日には誕生祝いをしています。

 

 では、亡くなったのはいつですか。

 こちらも、即座に承和2(835)年3月21日とお答えになる方がいらっしゃるかもしれません。

 残念ながら、日本史の問題なら正解でしょうが、真言宗的には不正解です。

 はい、そうです。お大師様は「入滅」したのではなく、「入定」しているからです。

 すなわち、お大師様は、全ての衆生を救うため、高野山の奥之院の御廟にて禅定(瞑想)に入られているとされています。

 

 こんなことを言うと、非科学的でくだらないという方もいらっしゃるかもしれません。

 実際、お上の公式の歴史書には、「朝廷の使者がお大師様の荼毘に間に合わず、何のお手伝いもできずに申し訳なかった」という記載や、弟子の実慧さんが唐の青龍寺に送った手紙の中で、「お大師様を荼毘にふした」という内容の記述があります。

 

 しかし、こんな現代にあっても、真言宗の僧侶や信徒は、普通にお大師様はいまも生きておられると信じていますし、高野山で、一日二回お食事が運ばれているのはご存じの通りです。

 

 さらに言いますと、四国遍路なんかでは、いまだにお大師さんに会ったという方もいらっしゃいます。

 

 以前、坂東三十三か所霊場の先達をしていたことがあります。

 その中のお客様の話です。

 年配の女性の方でしたが、何回かご一緒するうちにに少しずつご自身のことをお話してくださるようになりました。

 「私は、お寺にお参りしても、何のお願いもしていないんです。ただ、ありがとうございます、と感謝の気持ちを伝えているだけなんです。」

 その理由をたずねると、このように続けてお話してくださいました。

 「若いときのことですが、色々とあって四国遍路に出かけたことがあるんです。

 目的は死ぬためでした。お金がつきるか、気力、体力が尽きたらそのときに……、くらいの気持ちで歩いてました。

 あるお寺に立ち寄ったとき、そんな自分の気持ちを見抜いていたんでしょうね。そこのご住職がお金を渡してくれて、色々と言葉をかけて下さったんです。『死ぬな』とかではなく、もうちょっとがんばって歩いてみなさい、といった感じでした。

 その後、ある山道を歩いていると、峠の辺りでたくさんの小さなお墓が目に入りました。『ああ、この人たちは、生きたくても生きられなかった人なんだな』と思いました。そして、この人たちのことを考えたら、もうちょっと頑張って生きてみようと思ったんです。」

 その方は、看護師さんだそうで、災害なんかのときは、ボランティアでよくかけつけておられるとのことでした。

 本当に感謝の気持ちで生きている方なのだと感じました。

 

 四国を歩いていると、山中の遍路道には沢山の小さなお墓があります。ですから、それまでも、その方はその光景を何度となく見ているはずなんです。でも、そのときにはこんな気持ちにはならなかったんです。

 よく、同じ景色を見ていても、心のありようで見え方が違うと言います。

 この方の場合、ある住職との出会いで、心のありようが変わったために、見える景色が変わり、景色から感じるものにも変化があったのでしょう。

 

 そういう意味では、この方にとって、このとき出会ったご住職こそ「お大師様」だったのではないでしょうか。

 そして、災害ボランティアなんかで力を尽くしているときは、この方がだれかにとっての「お大師様」になっているのでしょう。

 

 人は、その人の志を継ぐ人がいる限り生き続けます。

 

 「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる」

 

 これは鎌倉時代に、天台宗の慈鎮さんという方が詠んだものです。

 この言葉を、少なくとも真言宗の信徒は、いまなお実感できているわけです。  

 裏を返せば、お大師様を近くに感じることができるというのは、この世がまだ捨てたもんじゃないということかもしれません。本当に終末的な、誰もが慈悲の心を忘れた非道な世界になったときにも、お大師様が「おはします」と言えるでしょうか。

 

 よく自分は先輩たちから「真言宗」であっても「大師教」になってはいけないと言われました。

 難しい言葉でいうと「教祖宗教」というのですが、教義をおろそかにして、教祖に対する盲目的な信仰ではいけないというのです。

 具体的には、困ったときにお大師様にすがって奇跡を願うというレベルにとどまっていてはいけないということです。

 お大師様が、願ったこと、やろうとしたことが早く実現するようにお手伝いをするということが、真言宗の信仰ということです。

 お大師様の誓願にも色々ありますが、「済世利人」というのもその一つです。要は「世の為、人の為」です。

 

 今日の御影供という日に、お大師様へのご恩に感謝するのは勿論ですが、お大師様がこれからも「おわします」よう、真言宗の末徒として誓いを新たにする日としたいと思います。

 

※ 令和三年御影供での法話に加筆修正したものです。

 

オレオレ詐欺 オレオレ僧侶

 少し前のニュースですが、いわゆる「オレオレ詐欺」の「受け子」の見分け方として特徴がいくつが上がっていました。

 たとえば、身体にあわないスーツを着ている、スーツなのに運動靴を履いている、社会人らしくない髪型をしているなどです。

 これを受けて、詐欺グループも対策を講じてくるかも知れませんが、やはり何かしらの違和感は払しょくできないと思います。

 

 007の主役として抜擢されたショーン・コネリーはそれまでスーツとは無縁な生活だったそうです。製作者としては、英国紳士の見本のようなジェームス・ボンド役にふさわしくなるよう特訓します。その一つが、日常的にスーツを着用することでした。寝るときでさえスーツを着ていたとも言います。

 

 僧侶の場合もそうです。同じように法衣や袈裟を身につけていても、なんか違和感がある方っていらっしゃるんですよね。

 霊園での法事なんかになりますと、他の僧侶の方と同じ控室になったりします。そんなときには、この人、本当にお坊さんなのかな、と思うことがあります。むこうもそう思っているかもしれませんが。

 

 あるときは、冬なのに夏物の絽(透ける素材のやつです)の衣を着た方と一緒になりました。よく喋る方だったので事情がわかったのですが、やはり普段はサラリーマンということでした。師僧の寺の法務が重なったため、動員がかかったそうです。法衣をもっていない為、住職から余っている夏物の衣を借りてきたとのことでした。

 そういえば、先日行った霊園でも、夏物の法衣を着た尼僧さんがいましたね。透けている素材の方がお洒落とか思っておられたのでしょうか。お洒落は我慢とばかりに。

 

 法衣を着ていても本物かどうかあやしいお坊さんがNGなのは当然ですが、法衣を着ていなくてもお坊さんと分かることが理想なのでしょう。それこそが「抹香臭い」ということなのだと思います。

 

 坊さんになりたての頃のことです。

 私服で電車に乗ってると、年配の男性から突然話しかけられました。

 「最近、髪が薄くなってきたんで、いっそのこと剃っちゃおうとと思うんだけど、手間はかからない?」

 急なことでびっくりしましたが、

 「一度剃ってしまえば、あとはお風呂の時に髭剃りで剃るだけですから、手間はかからないですよ。」

と答えました。

さらに続けて、その方は

 「でも、剃ってしまうと仕事に支障ない?」

と聞いてこられました。

 

………自分を僧侶として認識してなかったんですね。

 

とりあえず、

 「むしろ自分の場合、仕事には好都合です。」

とだけお答えしておきました。 

 

 今なら、私服であっても、ただのスキンヘッドの人ではなく、お坊さんと認識されるようになったのでしょうか。

不悪口

 今日も十善戒のお話です。

 口にまつわる戒律の続きになります。不妄語、不綺語の次は不悪口です。

 今までのものよりも、意味を推し量ることが容易な気がするかもしれません。

 しかし、一般的に用いる「悪口」を言ってはならないということではないのです。

 

 相手に対して、荒々しい言葉で罵ってはいけないというのが、不悪口戒の意味なのです。

 

 よく、「男性に失望した瞬間は何ですか」などというアンケートで「店員さんに横柄な態度をとっていたとき」なんていうのがランクインしますが、それを見ると、少し安心します。

 立場が優位であることを利用して、罵声を浴びせたり無理難題を突き付けたり、見っともないです。

 不悪口というのは、そういうことを戒めているわけです。

 それは表面にあらわれた言葉を問題にするだけではなく、むしろその背後にある傲慢な心を問題にしているわけです。

 

 法華経の中に「常不軽(じょうふきょう)菩薩」という比丘がでてきます。

 インドの話なのに、漢字でこんな不思議な名前がついているのは、名は体を表すパターンです(以前に出てきた月蓋長者もそうでしたよね)。

 この方は、出会った方に対しては誰に対しても礼拝してこう言ったそうです。

 「わたくしは、あなたを敬います(軽んじることはいたしません)。なぜならば、あなたは必ず仏になられる方ですから。」

 

 中には、気持ち悪がる人もいます。少し修行をして自信満々な僧侶なんかになると、なんでお前のようなひよっこに、おれが仏になるなんて予言されなければならないんだ、と腹を立てたりもしました。

 石を投げられたり、迫害を受けながらも、全ての人に対して「仏の種」を見出し、敬い続けた結果、この方は、のちにお釈迦さまとなられたのです。

 

 ちなみに僧侶の世界では、戒律として、たとえベテランの僧侶であろうと、相手がいくら新米の僧侶だからといって侮辱してはいけないとされています。実際に守られているかどうかは疑問ですが。ただ、実際、坊さん同士で、相手を馬鹿にして足を引っ張ったり意地悪をした人は、後々ろくでもないことになっているのは目にしていますね。

 

 「相互礼拝 相互供養」とはよく言いますが、どうしても仏の種なんか入ってなさそうな人もいて、手を合わせるどころか、手をあげたくなる人もいると思います。

 そんな人に対しても「悪を知らせてくれる人に感謝する」という心を持つことはなかなか難しいです。

 

 それでも、不悪口戒をお唱えすることで、自分自身の傲慢さを意識して抑える機会とするだけでも素晴らしいことでしょう。

 

※ 令和三年三月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。