仏教は哲学ではない

 お寺にいますと、檀信徒以外の方から、色々な質問を受けることがあります。

 先日は、電話にて「ふきょうし」になりたいとの相談を受けました。

 どうやら高野山真言宗の「本山布教師」のことのようです。高野山内の金剛峯寺などで布教をする僧侶のことです。お大師様のお膝元で、宗門を背負って布教をする立場ですので、講習会を受け、試験を突破しなくてはなりません。そして、その受講資格は、教師、すなわち加行を終わって住職資格を持っていることです。

 そのことをその方に告げると、「高齢で身体に自信が無いため、加行はできない」とのこと。しかし、「仏教に対して知識は十分あるから、どうにかならないか」と食い下がります。

 そこで、「別に本山でなくても僧侶であればどこでも布教はできますし、むしろそうすることが僧侶の責務ですよ」と申し上げました。

 すると今度は、「まだ普通の仕事もしているので、髪を剃らずに得度できませんか?」。

     

 どうやら、この方は仏教を「信仰の対象」ではなく「知識や学問の対象」としかとらえていないように思いました。

 実際、仏教と哲学との区別は難しく、重なり合う部分も多いです。真理を求め続けるという点などは共通部分です。むしろ、真理を求めようとしないものは「仏教もどき」ではないでしょうか。

 では、異なる部分はどの点か、というと「体験」「実践」を伴うかどうかだとも言われます。

 仏教も宗教である以上、実際の信仰、信仰に伴う宗教的行為や活動を通じてしか理解できない部分があり、そこに本質的なものが多く含まれているというのです。

 実際、在家出身でわざわざ僧侶になろうという人の中には、死を覚悟するような大病から生還した、人生のどん底から光明を見出した、といった「奇跡」をきっかけとしている方が多いです。そして、その方たちは強固な信仰心をもち、とりわけ熱心な方が多い様に見受けられます。

 もちろん、お寺に生まれた方でも、名僧になられたような方の話には、そのような逸話を目にすることが多いように思います。

 では、そのような貴重な奇跡体験をしないと強固な信仰心は芽生えないのでしょうか。仏教の真髄に触れることはできないのでしょうか。

 

 違うと思います。

 奇跡体験をするのではなく、奇跡体験に気づいて、意識して、感謝することが必要だというのが正しいのだと思います。

 

 どういうことでしょうか。

 

 以前にも書きましたが、お釈迦様はこうおっしゃっています。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」

 人に生まれたことの奇跡、しかも、仏教をはじめ、色々なことに思いを巡らす余裕のあるこの平和な世界に生まれた奇跡を、私たちは当たり前のように思ってしまいがちです。しかし、こんなチャンスはもう無いかもしれません。

 

 勤行で最初に唱えることの多い開経偈は、そのことを再確認して感謝する宣言です。

  

  無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)

  百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)

  我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅーじ)

  願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

 

 どんなに上手くお経を唱えるよりも、自分の置かれた環境が奇跡であることに感謝してから唱えるお経の方がどんなにか素晴らしいものになるでしょう。

 誰もが「奇跡の存在」です。大切に生きていかなくてはならないですね。

 開経偈、是非とも口に出してお唱えください。

 

※ 令和6年2月 寺報「西山寺通信」26号の内容を加筆修正したものです。

涅槃図 2024

 今年も2月の間は涅槃図を展示しています。

 お釈迦さまが入滅されたのは、はっきりした年代は争いがありますが、紀元前5世紀ころの2月15日とされています。

 そのことから、お釈迦さまへの報恩の意味で涅槃会を執り行うお寺も多いです。拙寺でも、派手な法要は致しませんが、涅槃図をご覧いただくことで、お釈迦さまの遺徳を讃えています。

 

 涅槃図には色々なメッセージが込められています。その中のいくつかを紹介したいと思います。

 

 お釈迦様は生身の人間なのですが、特別な方だということで、普通の人とは異なる特徴を備えたとされます。あの独特の髪形や眉間の白毫というのもそうです。ついには「ビッグな」存在というのが物理的な意味でも「ビッグな」存在であらわされるようになり、身長は5m近くになってしまいます。

 

 そんな超人みたいな方ならば、不老不死も可能だったんではないだろうか。そして、人々を導き続けてくれてもいいように思わないでしょうか、と思いませんか。これについては、自ら「無常」を伝える必要があったなんていう理由をあげる方もおられます。他には、自分が死なないと、みんな甘えてしまって本気で覚りを目指さないからだったという理由をあげる方もおられます。

 なるほど、いつでも頼れる人が近くにいると、自分でどうにかしようという気持ちが弱くなってしまうかもしれません。

 実際に、いつもそばに付き従っていた阿難さんというお弟子さんは、一番近くでお釈迦様の教えを聞いていたのに、まだ覚りに至っていません。それなのにお釈迦様が亡くなると知ったときの嘆き方は半端ではないです。涅槃図でも地面に這いつくばって派手に悲しんでいる姿で描かれています。

 

 しかし、お釈迦様は最後に仰います。

「自らを燈明とせよ 法(正しい教え)を燈明とせよ。」

 結局は、自分でどうにかしなくてはならないのです。そして、頼るべき正しい教えはすでに伝えてあるだろうと仰ったのです。別の場面では「私はもう拳を握っていない」すなわち、手の内に隠したものはもう何もないよ、と仰っています。

 

 お釈迦様は亡くなっても、人々を救いたいという思いや、そのための教えというものは不変です。それを示すのが後方の木です。平家物語の冒頭でも有名な沙羅双樹の木が、右と左に4本ずつ描かれています。よく見ると、葉の色が違うのに気づくでしょう。右は枯れていますが、左は青々としています。これは、お釈迦様の肉体が滅んでも、その思いや教えは変わらないことを表しています。

 何もお釈迦様に限ったことではないでしょう。私たちも、死んだら終わりというわけではないです。思いや影響力はこの世に残るものです。

 

 そして、このスパルタは功を奏して、阿難さんはお釈迦様が亡くなってほどなくして覚りを開きます。

 

 ただ、優秀なお釈迦様のお弟子さんならそれでいいのでしょうけど、凡人としては心細いです。では、お釈迦様の次に仏さまになられる方はいないのでしょうか。

 実は、予約が入ってます。弥勒菩薩さんが次に仏すなわち如来になられます。国宝第一号として知られる広隆寺さんの弥勒菩薩さんをご存じの方も多いですね。あの頬に指をあてて考え込まれている姿は、仏になってどうやって衆生を救おうかと考えをめぐらしてくださっているのでしょう。楽しみですね。でもそれって、56億7千万年後です。現在は兜率天というところで長ーいウォームアップ中です。

 

 そのため仏さまが娑婆の世界に不在である今を「二仏中間(にぶつちゅうげん)」と表現することもあります。中には、お釈迦様が亡くなってから、釈迦様の教えが残っている時代(正法)、表面上の形だけが残っている時代(像法)、そして形すら残っていない最悪の時代(末法)に分ける末法思想というものも生まれます。ちょうど今大河ドラマでやっている摂関政治の時代が、末法に入ったと考えられ、生きているうちに希望を見出すことをあきらめて、死後に素晴らしいところに行くことに希望を全振りするという浄土思想につながります。平等院鳳凰堂などは浄土への強いあこがれを具現化したものです。

 

 ただ、この二仏中間の時代であっても救いはあります。

 たとえば、お地蔵さんの存在です。お地蔵様はこのような救いのない時代を、昼は生きているもののため、そして夜はあらゆる地獄を駆け回り、亡者を救ってくださっています。

 

 そして、弘法大師さんもそのような方です。

 仏法という難しい「教科書」だけを手渡されて勉強しろ、ということが難しいことを理解してくださっています。ですから、沢山の「参考書」を残してくださいました。仏教の宗祖で、お大師様ほど著作が残されている方はいらっしゃらないと思います。

 それでも大変、という私たちのために「家庭教師」もしてくださっています。ご自身が奥の院で瞑想されているほか、先に述べた弥勒菩薩さんのいると兜率天で修業されるだけではなく、衆生のもとに駆け付けてサポートしてくださっているわけです。

 

 お釈迦様に比べると、かなり過保護かもしれません。

 私たちが仏を目指すにしても、自分自身が困窮していてはそんな余裕もないだろう、ということで手助けもしてくださっているわけです。

 密教の得意とする加持祈祷なんて、仏教の本筋ではないという方もおられますが、私たちが万全の心身で、仏を目指すためのサポートという意味で重要なものです。そういう意味では、自分が幸せになればそれでOKという加持祈祷は仏教の本筋ではないといえるでしょう。その先があってこそです。

 

 本日の護摩で、心身ともにすっきりしていただけたかと思います。仏となる、仏さまのお手伝いをする素晴らしい一か月としていただければと存じます。

 

※ 令和6年2月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

人間の矜持

 今年は新年早々、大変なことになっております。

 今日の護摩の祈願でも触れておられる方もいらっしゃいましたが、能登地方の震災のことです。

 それだけでも辛いのに、さらに心が痛いのは、火事場泥棒のような輩が現れていることです。日本人のレベルもここまで堕ちたのかと情けなくもなります。

 

 震災でうちひしがれている方の財産をかすめ取る行為、さらにはそのために集められた募金を盗む行為、お金持ちから盗みを働きそれを庶民にばらまく鼠小僧のような義賊の行為、すべて刑法上は等しく窃盗罪です。

 しかし、私たちの一般的な心情では、前の2つの窃盗行為を特に許しがたいと感じるのではないでしょうか。

 実際に量刑を左右する情状の部分で、募金の窃盗について単なる財物だけではなく「人の善意」をも侵したゆえに、重く罰せられた判決があったように記憶しています。

 

 最近はAIが発達して、多くの職業がAIにとって代わられる時代が近い、という話もあります。しかし、上のような裁判の場面で、人の心を加味する判断は苦手なのではないでしょうか。もっともAIが進化すれば、本当に反省しているかどうかを見抜いたりできて、良い面も出てくるかもしれませんが。

 

 一方で、同じ「審判」ということで、野球の審判については本気でAIの導入が語られています。実際、自分のひいきのチームが絡むと、ストライクゾーンでイライラすることもあり、AIでもいいんじゃないかと思うこともあります。

 しかし、一方で、人間の審判ならでは、という素敵なシーンもあります。

 高校野球好きの方ならご存じの方も多いかもしれませんが、山口さんというアマチュア野球の審判の方がおられます。「高校野球 審判 山口さん」などと入力すれば、動画でもご覧いただけると思います。是非、実際に見ていただきたいと思います。

 その方は本当に選手に寄り添った審判として有名です。エピソードはたくさんあるのですが、そのひとつを挙げます。試合終了のとき、両チームが整列して挨拶をします。負けたチームはうなだれて、涙を流してしゃくりあげています。そんな彼らに「顔を上げろ、大丈夫」などと声をかけるのです。君たちは敗者ではない、戦い抜いたことに胸を張りなさい、という意味の最高のねぎらいの言葉をかけるのです。こんなことはAIにはできないことでしょう。

 

 冗談みたいな話ですが、ロボットの僧侶も現れています。人間よりも安くできる、という話です。しかし、修業はどうするんでしょうか。僧侶って、上手にお経をあげるだけではないんですけどね。さすがに、生身の僧侶が取って代わられることはないと信じています。

 

 外見的に同じことをするにしても、そこに「心」をこめることを等閑にしない。

それこそが人間の矜持なのだと思います。

 

※ 令和6年1月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

歴史と伝統 特別な一年、一日

 みなさん、あけましておめでとうございます。

 

 昨年は阪神タイガースフィーバーで終わりました。「ARE」も流行語大賞でした。

 やはり38年ぶりの日本一というのは、特別感があります。

 おかげで、タイガースの懐かしい話がたくさん出てきました。

 

 プロ野球ファンでない方でも覚えておられるのは「江川騒動」ではないでしょうか。

 阪神がドラフト一位で江川さんを指名したのですが、巨人に絶対行きたいということで入団拒否。結果、一旦阪神に入団したことにして、巨人とトレードという形をとりました。

 そのとばっちりを受けたのが、巨人から阪神にやってきた小林繁さんでした。

 そんな小林さんに、掛布さんが「伝統あるチームから伝統あるチームにやってきましたね。」みたいなことをおっしゃったところ、「阪神は巨人と同じく歴史はあるが、伝統はない。」と返されたそうです。

 掛布さんは、当時は腹が立ったそうですが、のちに少し意味が分かった、というようなこともおっしゃっていました。

 

 なるほど、「歴史」と「伝統」は類義語ではありますが、同義語ではないです。

 歴史は時間の経過とともにオートマチックに作られていくものですが、伝統は人の思いや行為が伴ってはじめて作られていくものです。

 

 来年、西山寺は開山1200年を迎えます。1200年の歴史があるわけです。

 その間には、戦国時代の戦渦に巻き込まれて火災にあったり、地滑りによって破壊されたこともあります。

 それでも法灯が守られてきたのは、歴代の住職や僧侶、支える檀信徒がいたからです。建物こそ江戸自体の再建ですが、平安時代のご本尊がいらっしゃるのは、火の中に飛び込んで、命がけで守った先人たちの思いによるものだと思います。こうやって守られてきたのが、密教道場としての西山寺の伝統です。

 来年の1200年を機に、また新たな伝統を紡いでいくことができればと存じますので、ご協力をお願いいたします。

 

 これらのことは、歴史や伝統といった長いスパンの時間に限られないと思います。

 

 何もしなくても一日は過ぎ去ります。

 日曜日にぼーっとして過ごしていたら、気が付いたらテレビではサザエさんなんてことは皆さんも経験があるのではないでしょうか。

 

 一年でも同様です。自分も、年を取るにつれて、カレンダーの残り枚数が減るスピードが加速しているような気がします。

 

 何事もない、記憶に残らないような一日、一年というのも「平穏無事」だった証であるので感謝すべきかもしれません。しかし、せっかくなら、思いの詰まった特別な一日、一年を目指したほうが面白くはないでしょうか。

 そのためにも、健康と少しの運くらいは必要かと思います。

 

 今日の星まつりが、皆さんの特別な一年の手助けになるよう祈念しております。

 

※ 令和6年 新春星まつりでの法話に加筆修正したものです。

 

加行? はい 喜んで!

 何回か触れている話ですが、自分たち真言僧が行者としてスタートラインに立つためにはまず「四度加行(けぎょう)」という修業をする必要があります。

 「四度」という名称の通り、通常4ブロックに内容が分かれます。自分が高野山で行ったのは「中院流」の加行ですが、十八道、金剛界胎蔵界、不動護摩の構成です。流によって違いがあり、自分が現在、一流伝授を受けている西院流などの広沢系統の流では、金剛界の後に護摩が来ることが多いようです。

 

 高野山での中院流の加行についてですが、修行道場によって多少差異があるでしょうがこんな感じです。

 まず、日数です。各セクションで21日ずつです。21×4ですからトータルで84日となるのですが、四度加行の前に理趣経加行や護身法加行といった、そもそも加行に入るのに必要なことを身につける前行が加わるので、大体100日と考えればよいです。

 さして、一日につき3座ずつの行を修していきます。

 自分のときは、明け方に「後夜行」、朝の勤行、食事、下座(掃除とか)が終わると、昼までに「日中行」。昼食が終わると、奥の院や伽藍にお参りする両壇参拝。帰ってきたら「初夜行」。その後、夕方の勤行を終えて一日終了というのが基本ルーティンでした。

 最初のうちはまだ余裕があるのですが、最後の護摩行になると、一座あたり3時間越え、掃除や次の準備を含めるとさらに時間がかかりますので、かなりタイトになります。

 

 こういうこともあってでしょうか、今年から尼僧学院において、一日に二座ずつの加行プログラムが始まりました。これなら、余裕をもって修業できると思うかもしれません。しかし、誰も満行できなかったそうです。事情がよく分からないので何とも言えませんが、1日に三座ずつ、そしていつから始めるか(自分たちは初夜行スタートで日中行で終わるようになっていました)など、古来より伝わっていることにはちゃんと意味があるということかもしれません。

 

 今、受けている安祥寺流の一流伝授でこのような話がありました。

 安祥寺流の流祖は宗意さんという方です。この方はお不動さんを深く信仰していたそうです。それを知った師僧の厳覚さんが

 「そんなにお不動さんを信仰しているのだったらこの次第(厳覚さんのために師である覚俊さんが作ってくださったもの)をあげるから、この次第を使って100日間加行してみるかい?」

とおっしゃったところ、宗意さんは喜んで行じられたそうです。

 

 その後、宗意さんも実厳さんという優秀なお弟子さんを持たれます。あるとき、尋ねました。

 「ところで、あなたはどの仏さまがお気に入りなの?」

 「お不動さんです。」

 宗意さんは「同好の弟子」と知り、嬉しくなります。そして、さきほどの自分と師僧とのエピソードを語った上で

 「もしよかったらこの次第あげるから、自分と同じように100日の不動加行やってみる?」と尋ねます。

 それを聞いた実厳さんは喜んで、その次第を頂いて熱心に修したということです。

 

 そういうこともあって、この流ではお不動様を特に大切にし、四度加行とはいうものの、途中に不動法、しかも「二重」といっておよそ初心の者がやるには難しい複雑な行が加わっており、実質「五度加行」みたいになっているそうです。

 

 普通だったら、修行の日数が増えるのは「大変だな」と思うのが普通かもしれませんが、そうではないんですね。

 

 「あなたのために、この次第と法を伝えるよ」、と師僧に言っていただけた瞬間に、目を輝かせて「是非、やらせてください。」と食い気味に答える弟子の姿が眼前に浮かぶようです。

 

 そして、この話を伝えているのが、室町時代に、高野山で事相の大家であった宥快さんなのですが、この話に出てくる次第が伝わって自分の前にあることに、大層感激されておられるのです。今と違って、印刷されたものではなく、手書きの写本が大切に伝わっていく時代であったためになおさらですよね。

 

 さらに、このエピソードを今回の伝授阿闍梨である佐藤先生が、臨場感たっぷりに、ものすごく嬉しそうにお話してくださるんですね。

 登場人物すべてが「行法マニア」なんですよね(失礼)。

 

 先師さんたちから大事に伝えられてきた修法を感謝して学び、嬉々として取り組むことができる人にとっては何でもないことなのでしょうが、住職資格のために、義務としてしなくてはならない人にとっては加行はきついのかもしれませんね。

 

 

見えないとダメですか

 ネット記事で少し前に読んだものなので正確ではないですが、こんな話がありました。

 ある方が新築パーティーを開かれたそうです。会社関係や友人やらを呼んでワイワイやっていたそうなのですが、ある「見える」方が、調度品の一つを指して大騒ぎしたそうです。

 「この鎧は、合戦で多くの血を吸っていて、怨念がこもっている。このようなものを家に置いては・・・・・。」

 

 その鎧というのは、この家の主が数年前に作ってもらったものだったそうです。

その方曰く、

 「自分、この数年で、なんか合戦に参加したっけ?」

 そして、「見える」のもいいけど、場の空気を「読む」力もつけてほしいと結んでおられました。

 

 いつも言っていますが、自分も「見える」人がいることを否定していません。むしろ、そういう力を持つ方がいることも理解しているつもりです。

 

 むしろ、自分にそのような力がないことを不安に思っていた時期もありました。

 特に、真言宗の僧侶になろうと決心した際には、そのような力が無くてもやっていけるのだろうか確信が持てませんでした。

 

 よく分からないままに、最初の修業である「四度加行」に入りました。

 先日書いたように、仏さまを眼前にお招きして、あれやこれやとご供養します。非常に楽しいのですが、仏さまの姿ははっきりと「見え」てはいませんでした。

 そのような状態で、仏さまのために座を用意して、車でお迎えして、足を洗い、音楽を奏でて、供物を捧げる・・・・。おままごとと変わらないのではないだろうかと不安で仕方ありませんでした。

 

 その後、様々な伝授を受ける中でヒントであったり、救いを得られることになります。

 

 まずは、お大師様ゆかりの久米寺さんで受けた理趣経法の伝授でのことです。伝授阿闍梨様はこうおっしゃいました。

 「加行のときなんか、仏さまの姿なんか見えない中で、とにかく次第通りにやることだけに必死だったと思います。今だって、なかなかはっきりと姿が見えないかもしれません。でも、そこに仏様がいらっしゃると思って、一生懸命にご供養することが大切です。たった一枚の樒の葉(※樒の葉を塗香や華鬘に見立てて供養します)であっても、ただの葉っぱではなく、仏さまへの大事な供物だと思うから、なるべくきれいな葉を選んで、洗ってお供えしているわけです。ただし、見ることをあきらめてはいけませんよ。」

 救われました。自分が加行であったり、日々の行法でしていることが無意味なおままごとではない、と言っていただけたようでした。

 

 その後は、どうしたら仏さまを「見て」行ができるようになるかを試行錯誤する日々でした。なんとなくうまくいったと感じるときもあれば、まったくダメなときもあります。規則性もはっきりしません。少しずつ焦っていました。

 

 そんなときに、阿字観瞑想の講習で、大阿様からこのように言われました。

 「観想(相)は想像ではありません。想像は自分が作り出すものですから、想像をやめた瞬間に消滅してしまいます。(仏様は)そういうものではありません。仏さまが実際にいらっしゃるのを見るのが観想です。」

 

 お寺にいますと、「見える」系の方との接点が多いです。まったく見えないという嘘つきの方はいらっしゃらないとは思うのですが、自分が見たいものを見ているだけの方もいらっしゃるように感じます。特に、こちらが出した情報を聞いた瞬間に、饒舌に語りだす方はそんな感じでしょうか。

 一方、葬儀や回忌法要なんかで、小さい子供が「そこにおじいちゃんが来てた。」というケースのほうが、先入観に毒されていない分、本当に見えているのかな、と思っています。

 

 それでもやはり、はっきり見えない自分が、人の命がかかっているような深刻な祈願を受けても良いのだろうかと思い悩むことはありました。

 

 先日、祈祷に関しては全国区の知名度と法力をお持ちの行者さんの講習会を受けてきました。その際に、このようなお話がありました。

 

 「私自身には何の神通力もありませんよ。だから一生懸命拝んでるんです。」

意外でした。そして、このようにも付け加えられました。

 

 「ただ、仏さまに願いが届いたな、というのは分かりますよ。むしろ、それが感じられないようでは、行者としては失格ですし、修練が足りないです。」

 

 この言葉には、すごく納得するとともに、大いに安心もしました。

 自分なんかでも、はっきりと姿は見えなくても、仏さまが来てくれているな、願いを聞いてくださっているな、というのは感じることができるようになりました。

 葬儀であったら、仏さまたちがいらしてるな、亡くなった方が喜んでおられるな、というのを感じながら引導作法をしています。

 

 ここまで、自分の話ばかりしてきましたが、これは坊さんに限ったことではないと思います。ただ、僧侶は修業を通じて、「見る」というか「見える」「感じる」ことができる方法に長けているだけだと思います。

 

 たとえば、今日の護摩にしても、皆さんが、炎を前にして、一心に真言やお経を唱えて、雑念を取り除くことで、仏さまを近くに感じることができる効果があるでしょう。

 

 さらに一歩進めて、在家の方でも、目の前の仏さまを感じるだけではなく、自分の心にも仏を見出したり、自分と仏さまが一体化する体験ができたりするのが密教瞑想だったりします。

 

 神通力なんか無くたって、密教は面白いというところを伝えていければ、と思います。

 

※ 令和5年11月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

 

「祈り」となるためには

 先日、尊敬するご住職の法話を拝聴する機会がありました。その中でこのような話がありました。

「神仏の前で一生懸命お願いをするのは『祈り』ではありません。ただのお願いです。感謝の気持ちが伴って初めて『祈り』といえます。」

      

 以前、後輩の僧侶が知り合いの方の病気平癒の祈願をしようと思い、先輩のところに相談に行ったそうです。すると

「あんたが拝んでも験は出ないよ。」

とはっきり言われたそうです。

 言われた本人は、プンプンでしたが、先輩が言ったのは意地悪でもなんでもなく、理由があってのことです。

 

 それは、普段、行法をしていない僧侶が祈願をしても功を奏さない、と言われているからです。

 先輩は、その後輩が、常日頃ちゃんと拝んでいないのを良く知っていたのです。

 

 黙って陰で祈願をするのであればそれで良いのかもしれませんが、僧侶が、相手に拝んだことを伝え、祈願札でも渡すとすれば、相手の方は恩に感じたり、過度に期待したりするでしょう。それに値する祈願がなされたものでないとしても・・・。

 さらにお布施までいただいてしまっては、詐欺と変わらないでしょう。

 

 ですから、祈願をするためには、その裏付けが必要です。それが日々の行法です。そこで、仏さまたちに感謝して供養をして「仲良く」しているからこそ、ここ一番でお願いできる、という自信になっているのです。

 

 祈願だけではなく、葬儀のような「供養」でも同様です。

 

 最近では葬儀に初七日が組み込まれているのは一般的ですが、自分は式中四十九日なんていうものもやりました。しかも一日葬です。持ち時間四十分で葬儀+初七日+四十九日です。当然いつもとは異なり「ダイジェスト版」での葬儀です。

 日々の行法をやっていなければ、怖くて引き受けられませんでした。

 

 祈願や供養が成就するためには、日々の感謝が伴ってこそ、ということです。

     

 長々と書いてきましたが、「願い」を「祈り」にするには「感謝」を忘れなければよいのです。

 一日単位では「朝に礼拝 夕に感謝」です。

 お経を上げる時間が無いので無理、なんて思わないでください。

 仏壇の中にいらっしゃるのは、長らく皆さんを見守ってきたご本尊様と、先祖という、皆さんを「えこひいき」してくれる特別な仏さまです。

 朝は、「行ってきます」、夕には「一日無事に終わりました。ありがとうございます。」と心を込めて手を合わせるだけでも立派な「祈り」でしょう。

 

 一年単位では初詣や元朝参りで一年の幸せを願うばかりではなく、お礼参りがあってこその「祈り」だと思います。

 年末に向け忙しい時期にはなりますが、一年間お世話になった寺社にお参りするのはいかがでしょうか。

 特別な願いが叶ったのであれば、ことさらにお礼参りを忘れないようにしたいものです。

 

 また、一年間頑張ってくれたお守りやお札も、ため込んでしまうことなく、感謝の気持ちを込めてお返しするようにしたいものです。ゲームではないので、同じ社寺の御守やお札を複数持っていても、覚醒したり、「凸させ」たりできませんよ。

 

 祈る姿と願う姿は外見的には区別がつかないかもしれませんが、まったく異なるものです。いえ、よく見れば、区別がつきますね。

 

 一年に一度、下手したら一生に一度しかお参りしないお寺や神社で、時間をかけてたっばり「願い事」をしている方の姿と、毎朝、通勤や通学で通りかかる神社や寺の前で、「行ってきます」「ただいま」と、簡単でも心のこもった「祈り」をされている方の姿とでは、後者が断然尊く映りますね。

 神仏ならなおさらお見通しでしょう。

 

 量より質の、ちゃんとした「祈り」を心がけたいものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和5年11月号の内容に加筆修正したものです。